ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について

前回の記事では虹ヶ咲が描くミュージカルの素晴らしさについて紹介しました。

今回の記事では表現方法ではなく、虹ヶ咲の内容も大変素晴らしいと言う事を紹介したいと思っています。

  

ラブライブシリーズが描いてきた事

ラブライブシリーズは部活としてのアイドル活動と言う共通の題材でそれぞれ異なるテーマを描いている訳ですが、このテーマはシリーズ毎にどのように移り変わって行くのでしょうか?

実はラブライブにはシリーズとしての共通のテーマが存在します。

 

そして時代はこのテーマに問いかけます。作品は常に移り行く時代に「本当か?」と問われている。。そしてその時代から問われるさまざまな疑問への解答をしっかりと次作で描かれていると感じています。

 

では共通テーマとはなんなのでしょうか?

それは

「何かの為に頑張る事、これって素敵なことだよね」

割とありきたりで漠然としたテーマに見えますがライブライブシリーズの制作はこの事をありきたりな帰結ではなく、真理をかなりちゃんと描こうとしています。

 

 

1つ目の作品では廃校を阻止するため立ち上がり、見事学校を守りました。

そして手段に過ぎなかった仲間たちとのスクールアイドル活動はかけがえのないものとなって残ります。(その後の卒業と言う終わりでもって解散する彼女達の選択。と言う2-映画でのあれこれは長くなるので今回言及しません)

 

この作品で描いたのは

「諦めない。やればできる。頑張ればきっと叶う。」

不可能に思える事でもやらなければわからない。そしてやってやれない事などない。

諦めずに頑張る事が大事だと、そしてその経験はきっと人生の宝物になるはずだと、

だから諦めずに頑張ろうぜ。と言う事を描いた作品でした。

頑張る事は一石二鳥。だからとても素敵な事なんですね。

 

そして2つ目のサンシャインでは

伝説となった前作の出来事を見習い、同じように廃校を阻止するためスクールアイドルとして立ち上がり、生徒達が頑張ります。しかしなんとこの作品では廃校の阻止に失敗します。

伝説は伝説でしかなく、彼女達がどんなに最善を尽くしても現実は残酷なのです。

 

しかしこの作品の本番はここからです。

「では彼女たちの行いに意味はなかったのか?」

 

これこそが時代からの問いだった様に思います。

1作目では「きっと叶う!」などと言っている訳ですが

「じゃあ叶わなかったらどうすればいいのか。」

 

これはかなり正しい問いだと思います。

叶わないなら叶う可能性にかけて頑張る事など無意味でしょう。

しかもそういう感情が付きまとう限りは常に叶わなかった時の恐怖と戦わなくてはなりません。もしかしたら意味がないことをしているのではないか?そう思うと頑張りたくてもがんばれないのではないか?

なんともあの時代らしく最もな問いだったように思います。

 

そしてこれに対する回答はサンシャインで見事に描かれました。

目的の為に頑張ったが結果は伴わなかっが、彼女たちの中には「目的の為に精一杯頑張った」と言う事実が残りました。

そして最終的には廃校の弔いとしてその活動と軌跡が語り継がれることとなります。

結果が伴わなくともその過程には大きな価値があった事を描いた訳です。

 

「頑張ることは無駄なんかじゃない、結果よりも大事な事がある。」

だからやっぱり頑張る事は素敵な事なのだと言う解答でもって示されました。

 

 

・虹ヶ咲のテーマ

3作目の虹ヶ咲は前2作に比べると明らかに異質です。

と言うのも今作は廃校を阻止する為と言うような最終目標が存在しません。

彼女たちがスクールアイドルをやらなければならない理由はもはやありません。

しかもこの事実に関して制作側はかなり真摯に受け止めている様子が伺えます。

なぜなら虹ヶ咲のキャラクターは全員

「なんの為にスクールアイドルをやるかの?本当に自分の為になる事は何か?」

と言う葛藤を持っている。

アユム、エマは憧れ

カスミン、セツナ、カナタは道徳

アイは主体

シズク、リナリー、カリンはコンプレックス

と言った具合です。

 

彼女達には共通の目標がないが故にそれぞれがスクールアイドルである事に意味を見出さなければなりません。それに際して目標もそれぞれ違ってきます。目標がバラバラという事は彼女たちの関係性は前2作と比べると非常に脆いと言う事でもあります。

 

そして更にやばいのが、この事実はしっかりと彼女達に降りかかります。結果としてこの同好会はメンバー間の目標の違いによってあっさり解散してしまう所から物語は始まります。前作2つから考えれば信じられない自体です。こういう所をちゃんと描く所も本当に隙がありません。

 

今作のテーマはここにあります。

前作で描かれた

「頑張ることは無駄なんかじゃない、結果よりも大事な事がある。」

と言う解答に対する新たな時代から問いは

「では辛い事も嫌な事も、無理をして、我慢をして頑張らなければいけないのか?」です。

 

これもかなり正しい問いだと思います。

「頑張る事は素敵な事だ。」「諦めちゃダメ。」「頑張る事は無駄じゃない。」

これらが正しいとするのならば、その過程で起きる全てを頑張らなければいけないのでしょうか?

当然の疑問だと思います。何故ならこれを是としてしまうとサンシャインで描かれた「過程の重要性」は下半分が無効になってしまいます。

過程で失った物がかけがえのない物であったり、ただただ過酷なだけの事であった場合、その先の結果すらダメだったら一体なにを持って過程の重要性を示せると言うのでしょうか?

そしてここが揺らいでしまうと根幹である「頑張る事は素敵な事だ。」はかなり部分的にしか説得力を持ちません。

 

だから虹ヶ咲はこうした疑問に対する解答を描こうとしている訳です。

 

そこで彼女たちは目的が合わない事実を受け入れます。そして目的の共有が出来ていない事が理由で解散したにも関わらず、目的を共有しないまま同好会の再結成に到達します。

 

ここから虹ヶ咲で描く時代からの問いへの解答が見えて来きます。

「頑張る上でなんでもかんでも我慢する必要はない、自分がどうしたいかを大事にしよう。」

こういう事を示そうとしているのではないでしょうか?

「自分の弱さを受け入れて、現実を受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」

そういうテーマです。

 

これによって「頑張る過程」は目的の為のみであってはいけない事が示せます。

できない事、やりたくない事。これらをやる事が直接的に目的達成に繋がるとしても、それを無理に頑張る必要はないと言う事を肯定している事になります。そしてそれらを受け入れた上で「頑張り方を考える」物語を描いています。これで解答としようとしている訳です。

 

これによって「過程の重要性」は下半分に対しても、やり方次第で有効である事がわかります。

これで「頑張る事は素敵な事だ。」の説得力が担保されると言う訳です。

 

だから虹ヶ咲のキャラクターは徹底して「乗り越えず」に「受け入れる」のです。そして「その上でどう頑張るか」を考えるのです。

 

だからセツナはアイドルを続ける為に(その上でどう頑張るか)ラブライブは諦める(乗り越えずに受け入れる)

それがたとえタイトルのラブライブですら、乗り越えないものとして切り捨てるほどの覚悟を持って示してきている点を私は非常に高く評価しています。

 

中でも6話が優れています。

リナリーは表情を豊かに作れないコンプレックスを克服せずに(乗り越えずに受け入れて)ボードで代替して表現します。(その上でどう頑張るか)

この回の素晴らしさは見て貰えれば納得できると思います。

 そしてこの物語の1話では「止めちゃいけない、我慢しちゃいけない」と言うセリフが大きな意味を持って始まります。

 

テーマはやはり

「頑張る上でなんでもかんでも我慢する必要なんてない、自分がどうしたいかを大事にしよう」

であり

「弱さを受け入れて、現実を受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」

という事がわかります。

 

しかし例外的に8話はこれが適用されておらず少し心配している事も話して置かなればなりません。

 

8話の問題点

それでは最後に何故8話の「しずくモノクローム」が問題なのかについて触れて終わります

 

シズクは自分をさらけ出す事を怖がるがあまり自分の人生を演技的にする事で解決とした。だから「自分の色」を持っていないが故のしずくモノクロームです。

そしてこれはリナリーと同様にシズクにとってコンプレックスとなっています。

しかしシズクはこの事をカスミンに「甘い事言ってんじゃねーぞ」と指摘されます。このシーンは突然の解釈違いで結構ビックリしました。そしてシズクはこれを受けてコンプレックスそのものを自力で乗り越えてしまいました。そんな簡単に乗り越えられるならこんなに世話のない話はありません。

これはリナリーの例で言えば表情を変えられない事を受け入れずに、頑張って表情を変えられるようになって乗り越える。と言う選択を取った事と変わりません。

「乗り越えずに受け入れて、その上で頑張る」とは言い換えると「何かを頑張らずに別の何かで代わりに頑張る」と言う事です。

 なんの犠牲もなく力で解決できるならリナリーの話はなんだったんでしょうか?

これではあまりにもリナリーが浮かばれない。

 

百歩譲ってシズクが自分をさらけ出す事が怖くて受け入れられずに演技的な人生を歩んで来たが、ついに自分をさらけ出す事を受け入れて、演技的ではない本当の自分で勝負する事に決めたのだとしたらギリギリ納得はできます。

しかしシズクが演技的な人生を歩んで来た事や演劇をやっている事自体も否定してしまう事になる為個人的にはあまり気が進まない解釈です。

やはり演技的な性格である所まで受け入れて欲しかったなと言う願望があります。

 

 

まぁそうはいってもまだ物語は途中です。

この辺に対する進展があっても全然おかしくはないので温かい目で見守って行こうと思っています。

 

現状虹ヶ咲に対する評価が非常に高いです。

それこそ人生史上でも上の方に残る勢いで。

だからこそちゃんとして欲しいと願っている訳で必要以上に期待しています。

 

まぁ結局最終的に何を言いたかったのかよくわからない感じなってしまいましたが、とにかく自分が虹ヶ咲を評価しているのはミュージカル文脈だけではないと言う事が伝わればそれでいいです。

 

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