ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

映画ゆるキャン△感想、日常が終わったその先で

駆け込みで映画ゆるキャン△を見ました。

めちゃくちゃ面白かったです。

これは完全に「俺たち」の話です。我々くらいの世代が観たらまぁ共感できない人はいないんじゃないかなって言う内容でしたね。

しかもまさか原作を全部無視してここまで踏み込んだテーマを扱うとは正直思ってなかったので相当衝撃を受けました。

 

それ故に非常に価値の高い作品だと思います。

恐らくこの映画はけいおんに並び、何年も語り継がれるだろうなと思っています。

 

今回の記事は映画ゆるキャン△が扱ったテーマがどれくらい凄いものだったのかと言う個人的な感想を書いて行こうと思っています。

 

・大人になった少女達

彼女達は大人になった。作中では言及されてないけど犬山の妹すら免許持っているくらいだから最低でも10年後の世界。しまりんは名古屋、恵那は横浜、なでしこと大垣は東京、犬山は地元、それぞれが全然違う所で仕事をしている描写から物語が始まります。

 

これびっくりするくらいリアルな話で、大人になると大抵みんな地元を出る事になるあの感じ、わかる人にはわかりますよね?。それで教師になる犬山みたいな奴だけが地元に残るんですよ。この感じあまりにも身に覚えがあり過ぎてぞっとするレベル

 

極めつけはしまりんが平日は名古屋で仕事をこなし土日は数時間かけて地元に帰ってキャンプ場を作っている。これに関しては今の自分と全く同じで笑ってしまった。

 

こう言う大人しまりんみたいな気合いの入った行動力って「すげーなお前」って言われがち(褒めてる2割、引いてる4割、馬鹿にしてる4割くらい)なんだけど別にやってる側はそこまで命削ってるつもりはなくて、むしろ仕事がきついからこそそうやって好きな事の為にエネルギーを使う事に救われている部分って結構あるんですよね。だからしまりんの気合の入った生活感には大人のリアルが凄く乗っていて共感できる。

 

こういう大人になるとわかる現実みたいなものの質感って日常系アニメの10年後の世界って言うこの映画ならではの設定でしか味わえないからそういう所を大事に描いているのは流石だし映画ゆるキャン△の物凄くいい所だよなーと思いました。

 

そしてこれって実はかなり凄い事をしていて、要するにこの映画は映画けいおんの更にその後の世界を描いた作品って事になるんですよね。

これが何故そんなにやばいのかと言う事を今回の記事では説明をして行こうと思っています。

 

・日常系キララアニメの願い

アニメゆるキャン△けいおんを代表とするいわゆる日常系キララアニメの一つです。つまりなんてことない日常でしかないはずなんだけど後で振り返ってみれば輝かしい日常だったよねって言う感動があるジャンルです。

 

この系風の作品の中でも最も偉大だったのはけいおんです。何故けいおんが偉大なのかと言うと「卒業」と向き合った作品だからです。

なんてことない日常を真に輝かせる為には「終わり」がなくてはならないと言う事を示した訳です。

 

このテーマは劇場版ラブライブや100ワニなんかが引き継いでその価値を補強してくれていますね。つまり日常とはその終わりを意識した時に初めて特別になる訳です。

 

映画けいおんは卒業と言う日常との別れを前にして何か特別な事をしようとするんだけど、やっぱりいつも通りでいいんじゃね?って言う結論を出してくる。こんな素晴らしい結論を大昔にけいおんが示した事によってキララアニメってもう不滅のジャンルなんですよね。

 

特別な事は起きなくていい、いつか来るかもしれない終わりを憂いながらそこにある日常を噛み締める。これが日常系キララアニメが今日まで永遠と焼き回しでも大人気コンテンツであり続ける理由です。つまりキララは「終わって欲しくないもの」を終わらせずに描き続けると言う視聴者の願いを叶える役割を担っていると言う訳です。

 

ここで話をひっくり返すようで申し訳ないのだけれど、私はこういう日常系アニメってあんまり好きじゃないんですよね。(え?)

 

いや何故かと言うとこの手の日常系アニメってよく言えば「カレンダーガール」だけど悪く言えば「エンドレスエイト」じゃないですか。

 

不滅の願いが込められた日常アニメってどこか現実から逃げているような気がしてしまうんですよね。だって私を含めて視聴者にとっての「振り返れば特別だった日常」ってもうとっくに終わってますよね?いつまでも「あの頃に~」とか言ってるのどうなん?って思いませんか?だから個人的にはやっぱり8月31日とは向き合わなければならないでしょってどうしても思ってしまう訳です。

 

もっと言うとアニメって観る人の「願い」で終わってはならないと思うんですよね。

アニメは観る人の「救い」でなければならない。

 

日常系キララアニメって「終わって欲しくないもの」を終わらせないだけの「願い」の作品が多くてなかなか終わりと向き合う作品がない。だからあまり好きじゃないと言う訳です。

そういう意味では実を言うとアニメゆるキャン△もそんなに好きじゃないです。

 

なぜならアニメゆるキャン△は上で書いた様なキララの系風を代表できる程の力を持って描かれているからです。理由としてはまず時間経過が驚く程遅い、2期までやってまだ冬すら終わってないってかなり珍しいと思います。このペースなら4期が終わってもまだ1年たってないとかそういうレベルのペースなので永遠にアニメが作れそうですよね。

 

もう一つ作品のテーマに踏み込んだ話をすると、この永遠性は「富士山」に象徴されます。このアニメってどこに行っても最終的に目的となるのは富士山の景色なんですよね。つまりゆるキャン△における富士山は「ずっと変わらないもの」の象徴と言う役割で機能しています。そんな富士山を色々な角度から、あるいは色々はシチュエーションで鑑賞する彼女達の行いはゆるキャン△を視聴する我々とパラレルであると言う事です。だから彼女達が「ずっと変わらないもの」の象徴である富士山を見に行くのと同じ様に、視聴者もずっと変わらない彼女達を観ていたいって言う日常系キララアニメの願いがゆるキャン△には込められていると言う訳です。

 

さて、ここまで説明すれば映画ゆるキャン△が映画けいおんのその後の世界を描いた作品である事にどう言う意味があるのかが見えてきます。

 

映画けいおんでは終わりを自覚する事でなんてことない日常が特別であった事を理解する事ができる作品でした。では映画ゆるキャン△はどうなのかと言うと、かけがえのない日常が終わってしまった後の世界と向き合う「救い」の物語だと言う事です。

 

だからこの映画で大人になった彼女たちの生活の質感がリアルに描かれている事には大きな意味がある訳です。

 

以上の事を前提に話を見て行きましょう。

ばらばらになった彼女達は一緒にキャンプをする事もほとんどなくなり、それどころか最後に会ったのは4年前にみんなでキャンプをした時だと言う。必然的に彼女達の関係はグループチャットでそれぞれの生活を写真で共有するだけの関係へと変化します。

完全にアニメゆるキャン△の日常は終わりを告げている事がよくわかります。

 

しかしここで思い出さなければならないのは、彼女達の失われた日常(アニメ版ゆるキャン△)の中で、実は似たような事があったよね?と言う事です。

 

それはしまりん(なでしこ)の「ソロキャン」です。ソロキャンは孤独を楽しむもの。そしてそこで得た経験や撮った写真をグループチャットで皆に共有していました。

 

そう考えるとこうして大人になってそれぞれの場所からそれぞれの生活の様子を送り合っているこの状況は正に10年前にソロキャンをしていた時の彼女達と全く同じ構図である事がわかってきます。

 

つまり輝かしかった日常が終わって次のステージに進む、ひいては「大人になる」とは「ソロキャン」の事なのではないか?という事が見えてくる訳です。

 

アニメ版1期ではソロキャンを愛するしまりんがなでしこ達の影響を受けて少しずつみんなでキャンプに行く事の良さを知って行く話でした、そして2期では今度はなでしこがソロキャンに行ったりしまりんが改めてソロキャンの孤独を楽しんだりして、ソロキャンの良さにもフォーカスが当たっており、「グルキャンもソロキャンもどちらも違う良さがあって最高だよね。」と言うのがアニメ版の総括だった様に思います。

 

さて、そう考えると大人になった彼女達がソロキャンなのであれば、当然学生だったアニメ版の物語全てがグルキャンだった、と言う対比が成立します。

 

日常が終わった後の世界が「ソロキャン」に象徴され、輝かしかったあの頃の日常が「グルキャン」に象徴されるのだとすれば、私がこの映画に求めていた「救い」が驚くほど鮮明に見えて来る。

 

つまり映画ゆるキャン△「学生だったあの頃もよかったけど、大人の孤独な感じもいいよね」と言う結論を最初から示している事になります。

 

だとすればもしあなたがアニメ版のゆるキャン△を観て、しまりんやなでしこのソロキャンを輝かしい日常の一部であると感じたのならば、輝かしい日常が終わってしまったその先にも「ソロキャン」と言う名の輝かしい日常が存在するのではないか?と言う可能性を示す「救い」の物語たり得ると言う訳です。

 

この結論の優れている点は、日常系キララアニメの中でこの結論に説得力を持たせる事が可能なのは恐らくゆるキャン△だけだろうという事です。ゆるキャン△でこれを扱う事に物凄く大きな価値があると言う訳です。

 

つまりここから先は「輝かしかった日常」のその先にある「新たな日常」が如何にして「もう一つの輝かしい日常」たり得るのかが示される必要があると言う事になります。

 

実際に物語を見て行きましょう。

ある日大垣はバラバラになってしまった野クルを集め、地元山梨の山奥の廃墟を使ってキャンプ場を作ろうと言い出します。こうして社会人5人によるキャンプ場作りが始まる訳です。

そしてリーダーに任命されたしまりんは、ここで作るキャンプ場のテーマは「再生」にしようと言います。

 

つまり廃墟となった場所が「輝かしかった今はなき日常」に象徴され、これから作るキャンプ場が「その先にある新たな日常」に象徴されると言う事です。これを「再生」つまり失った日常を取り戻そう!と言う解釈ができる訳です。

ここで注目すべきポイントは、このキャンプ場作りは解像度の高い現実的な大人の生活と常に隣り合わせで描かれていると言う事です。

 

皆仕事をしながらやる関係上、日によって空いている人がまちまちなので、犬山が5人のシフトを管理するとか言う学生時代ではあり得ない自体が発生しているし、運よく仕事場から許可をもらってキャンプ場作りに明け暮れていたしまりんが、後になって実は先輩が陰でめちゃくちゃフォローしていたお陰で成り立っていただけだった事を知って、その後毎日終電まで残業する事になったりする。

 

ここからわかる事は、大人になってから取り戻す輝かしい日常は無償ではないと言う事です。

思えば学生時代の輝かしい日常は受動的に成立しており、彼女達がその日常の為に敢えて何かをする必要はなく、無自覚に存在可能です。これに対して大人になってから取り戻す日常とは能動的に勝ち取らなければならず、自覚的にしか存在できないと言う違いがあります。

 

この違いを象徴するのはキャンプ場を作ろうとしている廃墟に存在する使い道のなさそうなバカでかい鉄骨です。

 

この廃墟は夜になると満点の星空が広がっており、それをドーム状の鉄骨の中から見上げるとまるでプラネタリウムにいる様な景色が見えて綺麗だと犬山が言い出します。

このシーン、言ってる事やばくて笑ってしまった。そもそもプラネタリウムって人工的に作られた星の様な光を鑑賞する為の装置なので、プラネタリウムの光を見て「星みたい」と言う事は普通だとしても、星を見て「プラネタリウムみたい」って言うのはどう考えてもおかしい。

 

これが意味するのは大人になってから取り戻す輝かしい日常とは人工的に作られた日常なのだと言う事です。学生時代の失われた輝かしい日常とはどこからでも見る事のできる本物の星空な訳です。これに対して大人になってから取り戻す日常とはプラネタリウムで見る星の様に作られたものである事を示している訳です。

そしてこの鉄骨にはもう一つ象徴しているものがある事にも注目しなければなりません。

 

元々この鉄骨は動物園的な用途で巨大な鳥かごとして機能するはずだったらしいです。しかしいざ運用してみたら檻の網目がデカすぎて鳥が逃げてしまいすぐに使い物にならず廃墟化したと言うバカ話がバックボーンになっています。

この鉄骨は見かけだけ見ると「鳥かご」だけどよく考えると全く機能していなかった訳です。

この「鳥かご」が象徴しているものって「大人になったしまりん達を取り巻く環境」の事だと思うんですよね。

 

なぜ我々大人は学生時代の輝かしい日常を失ったのかと言うと「社会」と言う名の鳥かごの中で自由を奪われたからです。でもよく考えてみればその社会ってこの鉄骨と同じように見かけだけの鳥かごで出ようと思えばいつでも出られるし戻ってこられるって言うめちゃくちゃ自由な鳥かごなんですよね。

 

だからこの鉄骨って「作られた物の様な星空が見える場所」であるのと同時に「不自由に見えて実は物凄く自由な場所」でもある訳です。

 

そう考えると彼女達を取り巻く環境って実はそんなに不自由なものではない事が示されている訳です。

 

で本編ではこの鉄骨には使い道がないので撤去する方向で大垣が話を進めそうになるんですけど、しまりんがこれに待ったをかけます。しまりんはこの鉄骨を「撤去せずにそのまま残そう」と提案します。

つまり彼女達が輝かしい日常を取り戻す為に「社会」は切り離さない事を示しています。これこそが大人になって取り戻す輝かしい日常には必要なのです。

 

 

しかし彼女達はここから最後の障壁にぶつかります。

キャンプ場として進めていた廃墟でなんと縄文時代の土器の欠片が見つかると言う事件が発生します。そして何の価値もなかったはずの廃墟は縄文土器の展示場になる事が市の判断によって決定しました。これによってキャンプ場作りは頓挫してしまいます。

 

そしてこの後畳みかける様に、犬山の職場が廃校になってその学校との別れを憂うシーンがあり、ちくわが実は老衰で死にかけていて命がそれ程長くないと言う話が出て来る。

 

これが何を意味しているかと言うと、じゃあ大人になって輝かしい日常を取り戻したのはいいとして、その日常の終わり、つまり「死」とどう向き合うつもりなの?と言う問題が残っている事までちゃんと描ききろうとしていると言う事がわかってきます。

 

どういう事かと言うと、確かに学生時代の輝かしい日常の終わりって単にもうあの頃には戻れないんだ・・・と言う呪いを抱えて生きて行く事になるだけで別に死ぬ訳ではありません。しかし大人の日常の「終わり」とは他人、あるいは自分の死によって発生する終わりです。

だから大人の輝かしい日常の終わりは、けいおんが示した様な「特別な事はしなくていい、なぜならそれは振り返った時に特別なものになっているのだから」と言う解答とは別解答でなければならないと言う訳です。

 

こうなってくると縄文土器が何を示しているのかが見えて来ます。要するに縄文土器とは「終わってしまった時代を象徴する、形ある物」な訳です。

 

縄文時代を生きていた人の生活を何故現代の人が知っているのかと言うと全部終わってしまっているんだけど縄文土器って言う形ある物が今も残っているからです。

ここでポイントになるのは死にかけで「終わり」が近いちくわがその土器を見つけて来る所です。

つまりこの映画が最後に示すメッセージは「大人の日常の終わり」ひいては「死」と向き合う為に必要なのは「形ある何かを残す」と言う事です。

それはある人にとっては名誉かもしれないし、ある人にとっては子供かもしれない。はたまたある人にとっては作品や記事かもしれないと言う事です。

 

確かに言われてみれば子供の頃って終わりに向かう為になにかを残そうって言う意識はそんなに無いけど、大人になると急に「なにも残せていない自分」に焦りを感じ始めてなにかをしようとするものだというのはわかる気がします。

これは漫画とかアニメとか映画を作る様な人は共通して同じ意識で作っている側面は絶対あるよなと言う事はこういう記事を書いていたりyoutubeを始めてみたりして思う事な訳です。

 

多分この意識ってどんな人間にも当てはまるだろうし、これこそが「死」と向き合う為にできる事の本質なのだろうなと言うのは物凄く説得力があると思います。

 

そうなって来ると「キャンプ場を作る」とはなんだったのか?と言う話に帰って来る。

大人になった私達の輝かしい日常とは、単なる思い出作りではなく「何かを残す」と言う事なのではないだろうか?

 

では映画の続きを見て行こう、頓挫したキャンプ場作りは大垣の頑張りによって「遺跡の博物館とキャンプ場が融合した娯楽施設」と言う企画が市に承認される。こうして彼女達のキャンプ場作りはなんとか完遂した。そして最後にこのキャンプ場の開店初日の1日を描いて幕を閉じると言う感じの内容でした。

 

ここでポイントとなるのはキャンプ場を利用するのは作った彼女達ではなく、家族や友達と言う事です。そして実はここでひとつ小さな事件が起きていて、キャンプ場への道が難し過ぎて誰もその場所にたどり着けなかったのです。その為急遽彼女達は利用者を迎えに行き、キャンプ場まで導いてあげると言う手順を踏む事になるんですよね。

 

つまり「大人の輝かしい日常」とは、学生時代の様な自らが夢中で楽しむと言うものではなく、「人を導いて感謝される事」なのではないだろうか?

要するにこの映画の最終的なメッセージは「他者から承認を本質とした日常であれ!」だったのではないかと私は考えています。

これが大人になった私たちの輝かしい日常は「何かを残す」と言う事なのだ、と言う話にも繋がっている訳です。

 

しかもこれしまりんがバイクで迎えに行くんですけど、なぜか大人になってから使っているバカでかいバイクのエンジンが動かなくなって昔の原付で迎えに行くんですよね。

 

「何かを残す」と言う事をする時に社会を切り離さないって言う話を上でしました。でもその後に「人を導く」って言う所まで行くと童心に戻ることが大事って事を示してるのではないだろうか?

つまり大人になって得られる社会とか孤独って人を導く時には必要なくて、ちゃんと童心で目線を合わせた方がいいと言う事です。

 

例えば自作でゲーム作ったとして、そのゲームの制作には大人にしかわからない難しい問題が山積みな訳です。でもいざ完成したらそんな大人にしかわからない事は置いといてそのゲームの面白さをワクワク説明してくれるかわいいキャラクターがいた方が絶対いいじゃないですか。

「作る時」は大人、「導く時」は童心に帰る。

これこそが俺たち大人の輝かしい日常のあり方なのではないか?と言う事です。

 

流石にここまでちゃんと「輝かしい日常終わってしまった世界から始める新たな輝かしい日常」と向き合う映画だったとは見る前は思いもしなかったのでめちゃくちゃびっくりしたと言う感想でした。

 

私は日常系キララアニメでありながら「願い」だけで終わらず最後まで「救い」であろうとするこの映画の姿勢に敬意を称したい。

 

そして我々はこの映画を受けて、今後の人生について考える必要があるだろう。