ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

虹ヶ咲とミュージカルと固有結界の話

皆さんは「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」(以下虹ヶ咲)と言う作品をもう見ただろうか?私は今までゲッサンのミリオンの素晴らしい点について紹介してきた訳だが、関連する話題として虹ヶ咲と言うとんでもない作品が出て来てしまったので今回は虹ヶ咲がなぜ素晴らしいのかについての紹介をしようと思います。

 

・この世界の支配者

私の思う最強の作品形態はミュージカルです。

ゲッサンミリオンとの関連事項は主にミュージカルと言う点にあります。この話は前に少しだけ触れた事があるのだが深くは言及しませんでした。 なので今回はミュージカルがなぜ最強なのかをちゃんと説明しようと思います。

ミュージカルがなぜ素晴らしいのかを説明する前にこの世界の支配者の話をしなければなりません。

この世界は言語によって支配されています。 コミュニケーションをとる時は当然言語を使うし、物事を考える時は脳内で無意識に言語を使って問答しているはずです。 しかしそもそも言語とは人間が作りだしたツールであり生物が元来持っている機能ではありません。 つまり元々は物事を考える事は言語を使わなくてもできるはずです。 実際人間以外の動物はそうやって思考しているはずです。

それなのに我々は言語として物質化した思考物しか物事として認識していません。

これは我々人間の認識が言語に支配されているからに他ならない。 故に人は言語として存在しない思考系はそもそも認識する事すらできません。 例えていうなら、仮に「好き」と言う言葉は存在するが「嫌い」と言う言葉が存在しなかったとしたら、我々は「嫌い」と言う思考物を「好きではないよくわからない感情」としてしか認識する事ができません。 数学が最もわかりやすい例です。縦10cm横10cmの正方形の面積は100cm^2であるがこれこそ言語化の英知です。 「縦横」と言う概念を言語化することで向きや形が理解できます。

そしてその大きさを「数値」によって言語化することで比較ができます。 そして面積の求め方と言う「知識」によって言語化する事で完全に支配し扱う事ができると言う訳です。 だから我々はありとあらゆるもの言語化しようとします。そうする事で我々は扱える物事は多くなりその分だけ賢くなるからです。

 

言語化不可能領域の神聖性

ではこの世の全ては言語化可能であると言えるのでしょうか? 答えは当然ノーです。 我々は味覚や聴覚情報を言語で正確に伝達する事は出来ないし、怒りや疲れの度合いを数値化する事もできません。故に言語と言う名のこの世の支配者は万能ではない事も理解しなくてはならなりません。

だからこそ完全に言語化が不可能な領域は曖昧であり神聖なのです。 それは言語によって支配できない領域でありイメージする事しかできないからです。

それでは話をミュージカルに戻します。 アニメや漫画等の作品は物語が進行して行く上でのキャラクターの気持ちの変化や想いをなんとかして言語によってどうにか伝わる工夫がなされています。 しかし言語などでは到底表現できない様な感情は当然存在します。近年ではそれらをイメージできる様にする為に様々な非言語表現が用いられています。 それは広い海に浮かんでいる様な風景であったり、川の流れる様な音であったりする訳です。

勘違いして欲しくないのは言葉以外の全てが非言語表現と言う訳でもない、例えば「檻に閉じ込められた自分」みたいな描写はそれを言語に変換した所で印象にそれ程違いはありません。

言語に変換した物と比較して、言語より優れている印象が与えられる事で初めて非言語的な表現となります。

逆に言えば非言語表現には言語を使う事もできると言う事です。例えば「重い」と言う字が石になってキャラクターにのしかかり倒れている様な描写は言語を内包した非言語的な表現と言えます。

 

・歌の価値

とりわけ俺が優れていると思う非言語表現は「歌」です。歌は言語を音に乗せた強化系です。地盤が言語であるが故にその力は強大だが支配力が強すぎて誤認識を起こしてしまいそうになる点は厄介です。しかしそう危惧するほどの支配力は意外にありません。「歌」が人に与える印象を思い出してほしい。 初見の「歌」を言語のそれとして認識し脳に留めるでしょうか?そうではないはずです。 実際はメロディが先に記憶に残るし、覚えている言語など精々サビの歌詞くらいでしょう。 最終的に残るその「歌」のイメージは結構曖昧でありかなり神聖の領域に近い物であるはずです。 (まぁそうは言ってもかなり支配力は強いので扱いには要注意である事は自明ですが。)

つまり「歌」は言語にすら支配されつくされない強力な力を持っており、尚且つ地盤は認識の支配者である言語なのです。言語化不可能な領域の表現にここまで近づく事ができる方法はこの世に存在しないと俺は思っています。

ここまで説明すればミュージカルがいかに優れている作品形態かが見えて来ます。 キャラクターの心情の解像度は非ミュージカル作品の比ではありません。言葉で説明されるより何倍も心に刺さります。 (かといって安直にミュージカルが一強かと言うとそうではありません。歌の質もピンからキリまである為それら全てが他の表現方法全てを超えているはずもないので。なんなら例を探せばすぐさま見つかるレベルだと思いますし、だからこそ私は雑な作りをしている(と思っている)ミュージカル的な表現にはあまり関心を示さない所があります。)

 

現代ミュージカルの代表作であるアナ雪がいい例です。エルサは完全に一人になった事で真の自由を手に入れました。しかしその自由の背景にはもう帰る事はできない悲しみや罪の意識があります。その神聖なる想いは単なる言葉のみでは真に理解する事は難しいです。しかしレリゴーによって真に神聖な領域を体感する事ができます。

レリゴーにはそれを表現できるだけの力があったからこその流行だったし、あそこまで人の心を掴んだのだと思います。

参考:松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」

https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM

 

・アニメとミュージカル

もう一つのミュージカルの特徴は物語との不自然な独立です。

制作者と視聴者とのお約束によって物語の整合性と独立させてしまう事で成立する大変豪の深い表現方法です。 これによってそのお約束タイムの間だけ心情表現の世界に引き込まれる、そしてその神聖な世界を体感する事になります。

(補足:この製作者と視聴者とのお約束と言うのは作品内部の設定的なお約束の事ではなく、作品外部のメタ的なお約束の事である点は勘違いしてはいけません。例えば、かのかりで和也と水原が事ある毎に鉢合わせてしまうのは設定的なお約束です。対してプリキュアが変身している時間を敵キャラが呑気に待っていたりするのはメタ的なお約束です。)

 

俺はこの典型的なミュージカル表現である物語の整合性と独立していると言う所まで含めてかなり好きだ、お約束タイムに入る流れが不自然であればある程評価が上がるくらいには気に入っている表現です。

整合性との独立はそのまま表現の自由度に繋がります。

普通に考えれば如何に歌が非言語表現として優れていたとしても、キャラクターが突然歌いだしたら倫理的に見てもやばい奴だし物語の整合性が取れなくなるのは当然です。ここを自然な形に落とし込もうとするならば作品形態をアイドル物にする事で歌う事自体を自然な物にするしかありません。だから物語の形態に依存せずに歌の力を使おうとするならもういっその事整合性と独立させてしまった方がいいと私は思っています。

 

しかし残念な事に世間的にはこういう整合性からの独立はあまり評判がよくないのか、近年のアニメではミュージカルまで割り切った表現は珍しい、最近だとSIROBAKOの映画で宮森がカレーを食べた後のシーンなんかはミュージカル的だと思ったくらいで他は特に記憶に新しくありません。

不自然さと言う点をかなりライトに落とし込んでアイドルものにしてしまう事が多い。けいおんから始まり、アイマスアイカツくらい整合性の取れた世界観に落ち着いているし、あってもプリパラやキンプリくらいで、これくらいの不自然さですらかなり挑戦的だと言われている程度です。

特に印象的なのはレヴュースタァライトの舞台版とアニメ版の違いです。舞台版ではキャラクターの自己紹介がミュージカルになっており話の整合性無視の完全なるメタ的なお約束タイムが存在していて大変すばらしいのですが、アニメ版ではこれがなくなりアニメ内での舞台においてしかミュージカルが存在せず、これはどちらかと言うと設定的なものとして扱われています。アニメにするにあたって話の整合性重視に切り替わっているのが見て取れます。アニメのやり方はあくまでもミュージカル的にはなり得ない事が示された例です。

「ミュージカルとアニメは別物であり畑が違う」と言うのが現代アニメの着地点の様です。

個人的にはアニメももっと不自然でいいしミュージカルして欲しいなと思っています。

 

 ・虹ヶ咲とミュージカル 

さて、現代アニメの着地点とミュージカルがいかに優れているのかを示した所でようやく虹ヶ咲の話をしましょう。 虹ヶ咲ではまさにミュージカルそのものと言った表現が採用されています。

 

不自然さがかなり際立っており、ここまでミュージカル的な表現をしたアニメはかなり珍しいです。

f:id:peapoo-pnpk:20210118190741p:plain

ここで注目したいのはこのお約束タイム中の「歌」がこの世全てのミュージカル的表現を葬送するかの如く、新たなる時代を切り開こうとするかの如く先導性があった所です。 なんと歌に「固有結界」が追加されています。

整合性との独立に合わせて歌の表現自体すらもファンタジックに仕上がっており、歌の世界からすら更に整合性との独立が行われている。その空間の在り方は「固有結界」その物と言えます。

「固有結界」とはFateシリーズの設定であり、「心象風景の具現化」の事である。 個と世界、空想と現実、内と外を入れ替えて現実世界を心の在り方で塗りつぶす最終奥義の事です。

説明を読んでもらえばわかる通りだがミュージカルとの相性が抜群です。 この「固有結界」に相当するものを虹ヶ咲はミュージカルの中に追加してきました。 当然こんな事が許されるのであれば既存のミュージカルよりも更に解像度は高くなります。 これによってもはや「固有結界」を持つミュージカルはそうでないミュージカルの上位互換となってしまったと言わざるを得ません。 故にこの世全てのミュージカル作品の葬送するにたり得ると言う表現は存外言い過ぎではないと思っています。

何より、これはアニメだからできる特権でありアニメでこれをやる事に何よりも価値があります。

 

私はこれを現代ミュージカルのソリューションとして提示したい。 なによりもっとこう言う表現がアニメ界でも増えて欲しいと本気で願っています。

虹ヶ咲には私にとってのミュージカルの未来がかかっていると言っても過言ではない。

そういう意味でも大変期待している。

 

ありがたい事に虹ヶ咲はなんとYouTubeで全話無料公開しているので興味がある方は是非見て欲しいです。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 1話

https://www.b-ch.com/titles/7087/001

 

次記事、ラブライブシリーズが描くテーマについて↓

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について - ぴんぷくの限界オタク日記