ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

リコリス・リコイル感想、才ある者達の生存戦略

リコリス・リコイルを観ました。

そこそこ面白かったです。ただガバガバな部分があまりにも悪目立ちし過ぎて最終的に何とも微妙な仕上がりになってしまった事は否定できそうにありません。しかし意外にもそういうツッコミをする人はごく一部で、実際には相当評価されているみたいです。(売上も歴史に残りそうな数値が出ているらしい)

でもここで高く評価されているのってキャラクターの心情描写的なニュアンスで「話がガバでも心情が矛盾しなければいいでしょ」と言う評価軸が支えになっているようです。

確かにチサト役の安済知佳演技があまりにもずば抜け過ぎていてビビりました。おまけにあのレベルの作画です。質のいいキャラクターアニメとして評価されるのも流石に納得せざるを得ないのでそう評価されるのはよくわかります。

しかし個人的にはその方向だけでリコリコのガバを擁護するのには待ったをかけたいです。リコリコの評価軸はもう少し違うところにもあって、あるテーマを描く為に細部のストーリーラインが蔑ろになってしまったのではないかと思っています。

 

 

この話って要するにアラン機関から生まれた子供たちの生存戦略がテーマになっていて、その背景には「社会の為に生きる意味ありますか?」と言う現代社会の素朴な疑問から始まっている問題だと考えています。これが後にポストエヴァ世代以降のミクロな社会に舵を切るアンチノブレスオブリージュの大流行へと繋がって行くのが現在日本社会が抱えている大きな社会問題です。

今回の記事ではリコリコはこの社会問題に対する1つの回答を提示した作品なんじゃないかと言う話を書いていこうかなと思っています。

 

・ノブレスオブリージュの機能不全

ノブレスオブリージュとは能力の高い者は社会的な責任と義務が付いて回ると言う欧米社会の基本的な道徳観の事です。

これを大々的に描いたアメリカを代表する作品がスパイダーマンす。スパイダーマンで最も有名なセリフは大いなる力には大いなる責任が伴う」と言うもので、これは主人公のピーターが一時の気の迷いから強盗犯を見逃す事になるのですがその強盗犯が後に人を殺してしまいます。この出来事によってピーターは「人を殺したも同然だ」という罪を糾弾される事になります。こうしてピーターは力を持っている以上スパイダーマンと言う社会貢献的な役目からは逃れられないという脅迫概念を刷り込まれることになる訳です。

しかしこのノブレスオブリージュ的な考え方は日本ではポストエヴァ世代以降を堺に完全に崩壊しています。

社会が個人を助けてくれる保障がなくなった現代社会において社会の為に大いなる力を捧げようとする若者は果たしてどれ程残っているのでしょうか?

恐らくまだ社会の為にエヴァに乗ろうなどと考えている人ははっきり言って異常者に分類されるはずです。社会の為に頑張ろうなどと思える程もう社会はまともに機能していない事が誰の目から見ても明らかな現代では、人類の為に自分を犠牲にしてまで誰もエヴァには乗りません。もしポストエヴァ世代以降の子供達がエヴァに乗る理由があるとすればそれはマクロな社会の為ではなくミクロなコミュニティの為でしょう。

これがアンチノブレスオブリージュの流行と言う社会問題の本質です。

 

さて、以上の事を前提にまずは「リコリスと言う組織を見ていこう。

リコリスは社会の平和を守るために存在する凄腕の暗殺者集団です。大儀がありタキナもやりがいを感じていました。しかし蓋を開けてみればその実態はただの使い捨ての駒に過ぎず、社会の都合で簡単に切り捨てられてしまう存在である事が後に明かされます。

この構造はまさに現代社会でノブレスオブリージュが機能不全に陥った過程と全く同じです。「こんな社会の為に生きる意味ありますか?」と言う疑問はリコリスと言う組織が今まさに抱えている問題であり、この社会問題の象徴でもある訳です。

一方「喫茶リコリコ」(チサト)はこれとは対照的に「やりたい事最優先」と言う方針で目の前の困っている人を助ける万屋です。DAからの仕事もこの方針に則り誰も殺さないという縛りプレイにその才能を使います。「才ある者は人を助ける責任がある」と言う必然性自体はスパイダーマンと同じですが、ピーターとチサトでは動機が異なります。ピーターは「人を助けられるのに助けない事は罪である」と言う理由で大いなる才能を使いますが、チサトは「なんとなく気分が悪くなるから」と言う個人的な理由の為に大いなる才能を使います。背負っている責任の価値が同じでも動機が異なる為、人助けの手段に大きな違いがでると言う訳です。つまりチサトはアンチノブレスオブリージュ代表なのです。

これに対してピーター世代、ノブレスオブリージュ代表はヨシさんです。このヨシさんがかなりいい味を出している。

ヨシさんは「天才は神からのギフトだ。必ず世界に届けねばならん」と考えており命を懸けてでもチサトをノブレスオブリージュの世界に引きずり込もうとするラスボスです。

個人的にヨシさんの好きなセリフは8話で「選ぶことなどできない、生まれながらに役割が示されている。幸福なことだ」と言うシーンです。

そもそもノブレスオブリージュとは「私はなんの為に生まれて来たのか?」と言う生きて行く上で極めて重大な問題に対する解答であり、これもまた生存戦略の一つである事がスタートラインになっています。

だからこのふたつの思想は「社会の為か」「個人の為か」と言う世代間の価値観の違いこそあれど、「幸福に生きる為の生存戦略」と言う意味で等価値です。

つまり、リコリコと言う物語はチサトとヨシさんと言う2世代間の代表者達による思想対決であると言う訳です。

 

 ここで勘違いしてはいけないのがノブレスオブリージュを否定するというチサトの思想は個人の為に社会を切り捨てると言う意味ではないと言う事です。

確かに社会にとってリコリス捨て駒ですが、その代わりに社会は平和を維持する役割をちゃんと遂行してくれています。その意味でチサトとの利害が一致しているところもあり、部分的に共犯関係になる事が可能です。

だからチサトとDAは険悪な関係でありながらもお互いを利用する路線で協力し合っている訳です。

これがわかりやすくアンチテーゼとして表れている人物が真島です。真島はチサトと同じく「やりたい事最優先」であり、マクロな社会よりミクロなコミュニティの為に大いなる才能を使うアンチノブレスオブリージュ側の人間で、ある意味チサト世代のもう一人の代表者です。しかし真島はチサトとは違いDAと協力して生きて行くと言う選択肢を持ちません。

 

逆に言うと真島とチサトの違いはそこにしかなく、一歩間違えばチサトがDAを滅ぼしていた可能性も十分に考えられた訳です。つまり真島はチサトの在り得たかもしれないifの姿であり、真島の存在がチサトの思想に基づく実践的な解像度を上げていると言う構図になっています。

 厳密に言うと真島はマクロな社会と協力する気がないと言うよりは、マクロな社会を相対化して見ていると言うのが正しい表現です。真島は社会を言う組織を数あるコミュニティの1つにに過ぎないとしか考えていません。

一見すると真島は憎き社会を破壊しようとしている復讐者のように見えますがそうではありません。

真島にとって気に食わないのは単に社会が戦争を隠蔽しているという事に対してです。社会が相対化された世界ではそれぞれがそれぞれのコミュニティの為に好き勝手やればいい。しかしコミュニティの為に人を殺し合っていると言う意味ではマクロな社会も真島やっている事は同じなはずなのにマクロな社会だけが平和を掲げて好き勝手やっている事実を隠し、他のコミュニティをテロリスト呼ばわりしている。真島このアンバランスさに怒っている訳です。

だから真島は社会を滅ぼすつもりなど最初からなく、隠蔽の事実を暴露することだけが狙いだったという事です。つまり真島にとってのアンチノブレスオブリージュとはマクロ社会を相対化する事で顔もわからん奴に対する大義の為に「大いなる責任」を果たすのではなく、それぞれが選んだコミュニティに対して「大いなる責任」を果たせばいいと言う思想な訳です。

この意味ではチサトもマクロな社会を相対化されたひとつのコミュニティとして見ているので思想自体は真島と全く同じである事が見えて来ます。ではチサトと真島は何が違うのかと言うと実践的な方針に倫理を重んじるかどうかにあります。

そしてよくみるとこの実践的な方針は真島とヨシさんが一致しています。つまりこの3者の対立関係は実は密接に繋がっており非常によくできることがわかります。

 

どういう事かと言うとチサト、ヨシさん、真島の3者の関係は図にすると以下のようになっています。

この3者の関係性を考えるとリコリコと言うアニメが何を描きたかったのかが見えて来ます。

チサトとヨシさんは理念的な思想も実践的な方針も完全に対立しています。しかし実は真島はその丁度中間にいると言う関係になっているのです。真島と言うキャラクターを経由することによってチサトとヨシさんの対立構造が鮮明になると言う作りになっている訳です。

ちなみに右下はスパイダーマンのピーターが当てはまるでしょう)

 

ここまでくるとリコリコの示すアンチノブレスオブリージュの流行と言う社会問題に対する解答が見えて来ます。

つまりこのアニメはアンチノブレスオブリージュと言う思想をかなり肯定的に見ていて、しかし実践的な方針は真島のような非倫理的なものであってはならないと言うメッセージを読む事ができます。

 

だからこの物語の結末ってヨシさんはマクロ社会の責任を背負ったまま死ぬし(ノブレスオブリージュの崩壊の肯定)、チサトはマクロな社会から逃亡する。そしてアラン機関の紋章を投げ捨ててミクロなコミュニティでその力に課せられた責任を果たすようになると言う終わり方をすると言う訳です。

 

まとめるとリコリコと言うアニメは現代社会における才ある者達の新しい生き方の提示だったのではないしょうか?

 

ノブレスオブリージュが崩壊現代社会で我々がヨシさんの様に顔もわからない誰かの為にその才能を発揮する事に意味を見出すことはもはや難しいでしょう、しかしだからと言って真島の様にそれを呪いに変えてしまっては誰も幸せになりません。我々は人間であることを忘れてはならない。ならば社会と言うマクロな責任は放棄し「気分が悪くなる」と言うシンプルで楽観的な責任を倫理をもって果たす事に才能を使う方がよっぽど現実的でしょう。

 

そして倫理的でありながらも死さえも楽観的に受け入れる自然的なチサトの様な生き方こそが今の我々に求められる新しい生存戦略なのではないだろうか。