ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

映画ゆるキャン△延長戦、鉄骨ドームの解釈は「大人の社会」 で妥当か?

映画ゆるキャン△の感想を書きました。

https://peapoo-pnpk.hatenablog.com/entry/2022/09/13/171813

ありがたい事に読んでくれた人が大変面白い意見をくれたので、前回の記事の延長戦と言う事で別解釈について少し書こうと思って います。

 

論点は鉄骨ドームの解釈を巡る問題です。

この問題を中心として映画ゆるキャン△の新たな可能性について書こうと思っています。

 

と言う訳でまず前回の記事での鉄骨ドームの解釈をおさらいしておきましょう。

この鉄骨は内側から星を見るとプラネタリウムの様な景色になる。

つまり「作られたもののような星空が見える場所」

学生時代の失われた日常は自然に生まれる星空の様な日々だが大人になってからの日常はプラネタリウムの光の様に作られた日々です。

 

さらにこの鉄骨ドームは元々鳥が自由に出入りできてしまう「鳥かご」だった。

つまり「不自由に見えて実は自由な場所」

不自由に見えるのは「社会」です。我々大人は社会の奴隷としての不自由さを持っている。

しかしその社会の拘束力って別に強制じゃないしいつでも出入りできる訳です。

以上2つの事からこの鉄骨ドームが象徴するものは「大人になった彼女達を取り巻く環境」なのではないか? と言う解釈でそれを撤去しない、つまり社会と隣り合わせでやって行くキャンプ場作りこそが大人の輝かしい日常なのではないか?という話をしました。

今回の記事ではこの鉄骨ドームの解釈に待ったをかけるスタンスで映画ゆるキャン△の価値を再検討して行こうと思います。

 

まずそもそもこの映画の結論、と言うかスタート地点はなんだったのかと言うと、「 グルキャンもいいけどソロキャンもいいよね」って言うアニメ版の結論から派生した「学生時代(グルキャン)もよかったけど社会人(ソロキャン)も悪くないよね」と言うメッセージの存在が前提です。

そう考えるとここで言う「鳥かご」って本当に社会(ソロキャン) の事ですか?という疑問が生じる訳です。これはかなり的を得ていて面白いと思います。

 

確かに考えてみればグルキャンとソロキャンの良さの違い、ひいては子供と大人の良さの違いって「鳥かご」に象徴されますよね。ここで言う鳥かごとはグルキャンのことです。

最初にしまりんがグルキャンに参加していなかった理由ってグルキ ャンがまるで鳥かごの中にいるみたいに不自由なキャンプになってしまうのではないかと思っていたからですよね。でもやってみたら実はそんなに悪いものじゃなかったという事を知ります。

これって別にグルキャンが不自由であることが無効になっている訳じゃなくて「鳥かごみたいに不自由なのもいいよね」と切り分けられています。

 

つまりそもそもゆるキャン△って自由である事の良さが「 ソロキャン」に象徴され、不自由である事の良さが「グルキャン」に象徴されているんですよね。

そう考えるとやはり社会に羽ばたいて「ソロキャン」となった彼女達を取り巻く環境の事を「鳥かご」と解釈をするのは少しずれている様な気がしてきます。

だとしたらここで言う「鳥かご」ってやっぱり「グルキャン」の事だし「学生時代」の事だった事になる訳です。

確かにそもそも「学校」と言う空間は「社会」と比べてあまり自由がない。服装、頭髪、仕事、 等々全てが制限されている。 この閉鎖空間の中で大人の自由を羨む学生がいる事は別に珍しくなかった様に思います。そう考えると学校って正に「鳥かご」みたいじゃないですか?

 

だとするとプラネタリウム、つまり作られた星空を映し出す空間と言うのは「大人になってから手に入れなければならないもの」ではなく、「学生時代の輝かしい思い出」の事なのではないか?と言う解釈の可能性が生まれます。

 

なぜならよくよく思い出してみると学校で得られる思い出とは「 部活動」「文化祭」「修学旅行」とどれも学校側に仕掛けられた「 作られた思い出」でしかないんですよね。

そう考えると「鳥かご」であり「プラネタリウム」 でもあるこの鉄骨ドームって「大人になった彼女達を取り巻く環境」ではなく「失われた学生生活の日常」の事なのではないか? と言う新しい解釈が可能になります。

 

しかし仮にそうだとするならば鉄骨ドームの外側が「ソロキャン」と言う事になります。

そうなるとここで新たな問題が出てきます。

それは不自由だったはずの「鳥かご」の中での日常(グルキャン)はあんなにも輝いていた。これに対して「鳥かご」から出たしまりんの、ひいては我々大人の日常(ソロキャン)は果たして輝いていると言えるのか?と言う問題です。

 

・我々は自由の刑に処されている

学生時代って学生である事に色々と不自由を感じて大人に憧れるものですが、いざ大人になって自由を得てみるとそこで待っているものって「 無」なんですよね。

それは鉄骨ドームで運用される予定だった鳥達と同じとも言えます。鳥かごの中でエサを貰いながら仲間たちと飼われる生活は確かに不自由かもしれない。だけどいざ外に飛び出してみたらどこに行ったらいいのかわからなくなってしまう。だったら最初から鳥かごの中にいた時の方が幸せだったんじゃないの?って言う事は結構真理だったりします。

つまりこの鉄骨ドームが象徴する大人になる事の本質は、「社会」と言う名の鳥かごに囚われる事ではなく、鳥かごから羽ばたいて「自由」と言う名の虚無人間になる事なのではないか? と言う解釈に変わる訳です。

 

確かにこれだと「ソロキャン」はやっぱり輝かしい日常ではない事になってしまいます。

この問題を解決する為に重要になって来るのが、そもそも「 キャンプ」とはなにか?と言う話です。

 

これはアニメ版でも時折出て来るんですけど要するにキャンプって マッチポンプなんですよね。勝手に不自由な状況を作って勝手にそれを解決して喜んでいるのが キャンプの本質です。

これ冷静にやってる事かなりやばくて、言ってしまうとただのマゾヒストなんですけど、これこそが我々が自由の刑に処されている「大人」 と言う鳥かごの外の環境の中で、虚無人間ではない「個」を持ったソロキャパーである事の価値を担保しているんです。逆に言うと大人になったしまりんや我々が虚無人間にならない為に はマゾヒストにならなければならない事になります。

この事から人生にはマッチポンプつまり「キャンプ」が必要不可欠である事がわかります。 つまり我々大人の日常が輝く為には「ソロ」ではなく「 ソロキャン」でなくてはならない訳です。

 

さて、このように解釈して行くと「輝かしかったあの頃の日常」と「その後のソロキャンとしての日常」は実は最初から問題なく輝いている事になり、彼女達は一体何を「再生」する為にキャンプ場を作る事になったのか? と言う疑問が生まれる事になります。

この答えを探って行くと映画ゆるキャン△ のもう一つのメッセージが浮かび上がってきます。

ヒントになるのは星空とプラネタリウムです。

ここで言う星空の「星」とはソロキャンの事なのではないだろうか?なぜならソロとしての大人の日常で彼女達はちゃんと輝いているからです。どんな遠く離れていてもそれぞれが光り輝く「星」の様だと言う事です。

そうだとするとここで言う「プラネタリウム」 とは星と星を結ぶ繋がりの事なのではないだろうか? 実際の星空とプラネタリウムの星空の決定的な違いは星座として星 と星を線で繋げる事にあります。つまり「学生時代の日常」 が終わり「ソロキャン」として輝く彼女達が「再生」 しようとしているものは「繋がり」なのではないか? と言う事です。

 

学生時代の彼女達の繋がりって鳥かごの中にいるからこそ担保さていたものです。

と言う事は、では鳥かごから外に出てそれぞれが「星」となった彼女達の繋がりはもうなくなってしまうのか? と言う問題が確かにある訳です。

 

この問題に対して「プラネタリウム」つまり鳥かごの外にでて遠く離れていても、このドームから見たら星達はちゃんと星座として繋がっているよ。と言うメッセージが込められている訳です。

 

つまりこの鉄骨ドームは「 昔鳥かごの中で幸せに過ごしていた日常」の象徴であると同時に「 鳥かごから羽ばたいてそれぞれが輝く星として遠く離れていても繋 がっている」ものの象徴だったのではないか? と言う新しい解釈が可能であると言う訳です。

 

以上、なかなか面白い別解釈になったので記事にしてみた回でした。

最後にここから見えてくる個人的に感じたメッセージについて話して終わろうと思います。

 

星と星を繋ぐ為には星がちゃんと輝いていなくてはなりません。

つまり我々大人が「鳥かごにいたあの頃」 のように繋がっている為には個人個人がソロキャンパーとして輝き続けなければならない。

この残酷な資本主義社会に負けてはならない。

だから今日も負けずに歩き続けよう、磨き続けよう。

 

それは他者との「繋がり」を失わない為でもあるのだから。