ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

虹ヶ咲の描く主体性と社会性のジレンマ

まず初めに前回の記事で書いた内容が一部間違いであった事を謝罪したい。

前回の記事↓

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について - ぴんぷくの限界オタク日記

作品全体がなにを示そうとしているのかに関する事に訂正はないのだが、8話がテーマに矛盾していると言う考え方が間違っていたなと今は思っています。

 

虹ヶ咲は「自分がどうしたいかを考えて、頑張る過程を大事にしよう」そして「自分の弱さを受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」と言うテーマで描かれています。

何をしたいのか→何を受け入れるか→どうするのか。

と言う構成になっており、そうあるべきだと言う事を前回の記事で書きました。

そして8話はどこが問題だったのかと言うと、この「何を受け入れるか」を無効にしてしまった事が問題であると主張した訳なのだが。最終的に12話全て見た結果もう少し踏み込んだ虹ヶ咲の着地点と言う答えを得られたので、虹ヶ咲が描こうとしていた着地点と前回の記事の内容は正しくなかった事の説明を今回は書こうと思っています。

 

その為にまず我々が所属する「社会」と言う組織の構造について話さなければなりません。

 

・社会と自然界

人間は自然界に生息する動物と違い社会的な契約を持つ生き物だ。自然界の動物達には「できない事」こそ存在すれど、「してはいけない事」など存在しません。あるのは全て「自分の為」のみです。一方人間は「してはいけない事」が存在する。なぜなら我々人間は合理的に物事を考えて「社会の為」に行動できる賢い生き物だからです。だから自然界では暴力と逃げ足の速さでほぼ全ての問題を解決できます。お腹が空いたら他者を殺して食べればいいし、都合の悪い事からはしっぽを巻いて逃げればいい。逆に人間社会では力で解決できる事なんてほとんどありません。食べ物が欲しければ相応の対価を払わなくてはならないし、都合が悪くても逃げずに責任を取らなければならない事は山ほどあります。これは人間が動物の様な自然的な生き物ではなく社会的な生き物であるからに他なりません。

 

では我々人間が社会的な生き物であるとして、全く自然的な側面は持っていない生き物なのかと言うと当然そうではありません。そもそも社会契約を守りたくて守っている人などいないでしょう。本当は対価など払わずに欲しい物は手に入れたいし、責任問題だって逃げていいなら逃げるはずです。人間も元々は自然界の動物の一種に過ぎなのです。皆が「社会の為」に行動するのは例外なく社会の為ではない、総合的に見た上での「自分の為」の行動だと言う事になります。つまり人間は社会的な側面と自然的な側面の両方を合わせ持っており、この二つのバランスを取りながら生きている訳です。

 

この社会的な側面と自然的な側面のバランス関係は以下の様な表で表す事ができる。

 

 

f:id:peapoo-pnpk:20210106190206p:plain社会的な側面は「社会性」、自然的な側面は「主体性」と言う軸上でお互い正反対なっており、主体性を重視すればするほど社会性を軽視せざる得ないと言う関係になっています。「社会性」に関してはそのままの言葉を使っているので説明は不要でしょう。

自然的な側面がなぜ「主体性」になるのかと言うと、主体性とは「やりたい事をやる」と「やりたくない事をやらない」の程度の話でマクロに見るとどちらかでしかない、そして逆に位置する「やりたくなくてもやる」や「やりたくてもやらない」はどちらも社会的な行動に当たります。つまり自然的な行動は主体性と言い換える事が可能であり全く同じことを言っています。

 

わざわざ言い換えた理由は単純に我々が人間だからです。自然的と言うとかなり広義な意味まで持ってしまい、動物の本能的な行動と同じニュアンスで理解する事は危険でしょう。

 

さて、この「主体性」と「社会性」対立を我々は日常的に体感しているはずです。まだ少しイメージがしにくいのでもう1段階わかりやすくしましょう。

 

f:id:peapoo-pnpk:20210106190958p:plain

要するに「主体性」と「社会性」とは本音と建前のことです。

「お腹が空いたから食料が欲しい」が本音で

「食料の為に対価を支払う」が建前になります。

やりたい事とやらなければいけない事の関係とはこういう事であり「主体性」と「社会性」も同じ様に理解していいと思います。

 

社会性や主体性を数値で言われてもあまりピンとこないのでイメージしやすいように具体的な言葉を与えると以下の様になる。

 

f:id:peapoo-pnpk:20210106191044p:plain

主体性で何か新しい事始めようとすれば(挑戦)、なんらかの社会的なコスト(我慢)を支払う事になるのは当然の事で、それが「理想」や「夢」の様に大きなものを求めるほど何かを諦めなくてならかったりします(断念)。そこにつきまとう社会的な要求も大きくなると言う事です。

 

これは数値の程度がどれくらいなのかを明確にする為に例として与えた言葉に過ぎないので数値に振った言葉をあまり言葉通りの意味だけで考え欲しい訳ではありません。例えば何か欲しい物を得る為に本当は払いたくはないお金を支払う事はここで言う-1~1範囲の出来事なのだがお金を払う事が「我慢」なのはまだしも買いたい物がある事を「挑戦」と言うのはそれほど適当ではないでしょう。あくまでただの目安だと思って欲しいです。

 

それでは実際に世の中の現実的な落とし所について見て行きます。

f:id:peapoo-pnpk:20210106191143p:plain

 

基本的に世の中は絶対値1の範囲内が妥当な落とし所であり、ほぼ全ての行動や社会的契約はこの範囲で行われていると思います。 

 

しかし稀に絶対値2の範囲に到達する事も普通にあり得るでしょう。

f:id:peapoo-pnpk:20210106191303p:plain

絶対値2の範囲は一筋縄ではいかない、かなりの覚悟と代償が付きまとう事になる。

現実問題として絶対値2は相対的に見て社会性が逸脱している事が多く、あまり歓迎されないと言ってしまっていいと思います。よほどの事がない限り避けたいのがこの絶対値2です。当然絶対値3の範囲はもっと稀だしもっと歓迎されないでしょう。

 

・虹ヶ咲の着地点

主体性と社会性のバランスの話をここまでしてようやく虹ヶ咲の話をしましょう。

虹ヶ咲と言う物語の出発点は「大きな理想の為に大きな犠牲を支払う事の否定」からでした。

同好会はラブライブを目指す為にあった訳ですが、メンバーの意見がバラバラであると言う状況を踏まえてラブライブと言う大きな理想の為に無理をして足を揃える。と言う事を彼女達はしませんでした。そして同好会を解散すると言う選択を取ります。これは紛れもなく絶対値2が落とし所として逸脱であることを示していると言えます。これを仮に「主体性」方向からの否定と呼びましょう。

 

そしてもう一つ、笑顔にしたかったみんなの為に自分がスクールアイドルを諦める。と言う選択も逸脱であると示しています。これは絶対値2を「社会性」方向からも否定していると言えるでしょう。

 

こう見ると虹ヶ咲は一貫してこの絶対値2を超えないように作られています。

大きな理想を掲げて無理をするのはあまり現実的ではないと主張している訳です。

 

・ソリューション、絶対値1.5

それでは虹ヶ咲はどの範囲を目指しているのかに注目してみましょう。

彼女達は同好会を解散した事によってラブライブから解放され、それぞれの主体性は担保できました。これは絶対値1の範囲のよくある現実的な落とし所として理解できます。

しかし虹ヶ咲はそこからもう半歩だけ先に進みます。

なんとラブライブを目指さずに同好会を再結成する。と言う中途半端な選択を肯定します。

 

f:id:peapoo-pnpk:20210106191336p:plain

 

絶対値1から逸脱しながらも絶対値2までは逸脱しないと言う新たな選択、絶対値1.5。

そしてこの後の話はこの絶対値1.5を目指す話が続いていく事になります。

虹ヶ咲はこの絶対値1.5の範囲をソリューションとして提示している訳です。

 

これは大変偉大なことであると私は思います。

なぜならこの絶対値1.5は通常ならばそもそも存在しない選択肢だからです。あり得ない選択肢を無理やり作って選んでいるところが物凄く偉大な訳です。

 

・8話の再認識

この視点で見ると俺が前回の記事で8話を問題視していた事が間違いだったと理解できます。

当初は8話だけが強さに物を言わせた答えを出していたように思っていました。それはシズクは自分をさらけ出す事ができないと言うコンプレックスを単に乗り越えた様に見えたからです。しかしシズクの問題はそこではありませんでした。シズクにとって問題だったのは「自分をさらけ出せない事」ではなく「主体性を持って演劇をやっていない事」だったのです。

そしてこう見ると8話でシズクの出した結論は実は物凄く中途半端で、ちゃんと絶対値1.5に着地している事がわかります。

 

では8話の内容をおさらいしながら見て行きます。

8話が掲げていた問題はシズクには自分を表現できる様な主体性がなく、社会性の仮面を被った存在である事です。そもそもシズクが演劇をやっている理由は社会性の仮面を被った自分を肯定する為です。主体性がないからこそ他人の仮面を纏えます。何故ならシズクにとってはもはや外面の自分すらも他人の仮面を纏っているのと変わらなからです。

しかしこの回での演目は「自分をさらけ出す」と言う表現が必須であり、主体性のないシズクにはそもそもさらけ出す様な自分が存在しません。確かにこれは問題です。シズクはこの演目にはあまりふさわしいとは言えないでしょう。そこでこれを理由にシズクはこの演目から主役を下ろされる事になった訳です。

 

この問題を解決する最も理想的な方法はシズクのやりたい事が演劇である事です。そもそもこの演目に求められているのは、明らかにそういう人材でしょう。

しかし残念ながらシズクにとってそれは酷な話です。いくらそうあるべきだとしてもシズクには無理難題。なぜならそこは理想と言う絶対値2の範囲であり明らかに逸脱しているからに他ならなりません。

結局現実的な落とし所は絶対値1である「我慢」です。シズクの演劇のスタイルではこの演目は難しいと受け入れて主役から降りて別の演目に励む事が妥当な落とし所でしょう。

 

しかしシズクの選択そこから半歩だけ先に進みます。

主体性で演劇をやると言う理想は諦めて、それ以外の自分の主体性がどこにあるのかを見つけると言う選択を取ります。

結果としてシズクはスクールアイドルだけは自分の主体性でやっている事だと自信をもって言えるようになり、この思いを使って「自分をさらけ出す」を表現できるようになります。これは着地点としてはとても中途半端だ、紛れもなく絶対値1.5の範囲に着地した結果だと言えます。

つまり前回の記事でテーマに一貫性がないと問題視していた事は全く持って間違いであったことがわかります。(すいませんでした。)

 

最後にこの出来事が見事に演目の中で描かれていた事を示して終わろうと思います。

演目ではなんとシズクの中にある「社会性のシズク」と「主体性のシズク」が登場します。

f:id:peapoo-pnpk:20210107125340j:plain

 

黒の仮面を被っている方が「社会性のシズク」であり、こちらのシズクは理想よりも現実を重視します。

一方白いシズクは仮面を被っていません。これは「主体性のシズク」である事を示しており、こちらのシズクは現実よりも理想を重視します。

 

「社会性のシズク」はシズクが演劇に主体性を持たない現実を鑑みて絶対値1で妥協する事を推奨します。対して「主体性のシズク」は「なら演劇に主体性を持てばいいじゃないか」と言う理想的な絶対値2での解決方法を推奨します。

 

シズクはこれらに対して「両方の中間を取る事」という選択をとります。

f:id:peapoo-pnpk:20210107125354j:plain

この2つの極端主張を混ぜてしまうと言う方法を取り絶対値1.5を肯定した回となっていた訳です。

こうしてみると実はかなり良くできた回だったと納得できます。

いやー浅かった、訂正と謝罪を申し上げたい。

 

次記事↓

虹ヶ咲の描く主体性と社会性の補足① - ぴんぷくの限界オタク日記