前回の記事の続きです。
前回↓
虹ヶ咲の描く主体性と社会性の補足① - ぴんぷくの限界オタク日記
主体性(1話4話5話)
社会性(2話10話)
これらの紹介をし残りを今回の記事で説明しようと思っていたのですが想像以上に3話の説明が長くなってしまったので3話だけで一回区切ります。
残りはまた次の記事で紹介します。
と言う訳で
主体性と社会性のバランス(3話6話7話8話)
↑これの3話について紹介したい。
それでは早速3話を見て行こう。
・セツナの抱える主体性と社会性のジレンマ
主体性と社会性は表裏でありそれ故のジレンマを常に抱えている。これは前回の記事で説明した通りだ。主体性を優先すると必ず社会性が蔑ろになり逆もしかりと言う関係になっている。
3話はこのジレンマがもたらす問題をどの様に解決すべきなのか?と言う問いになっている。
セツナの主体性はスクールアイドルとして活動する事、そして理想はラブライブに出場する事。だからその為にセツナは同好会を立ち上げた。
つまり「やりたい事」がラブライブであり「やるべき事」がその為の厳しい特訓だ。
これがセツナの主体性だ。
しかしセツナのやり方ではメンバーの主体性を蔑ろにしてしまう事を知った。これをセツナは重く受け止める。結果としてセツナは同好会を解散しスクールアイドルを辞める事を選んだ。
これがセツナの選んだ社会性だ。
この2つが両方立つ事はあり得ない。主体性を優先すれば必ず他者の気持ちが疎かになり、社会性を優先すれば必ず自分の「やりたい事」ができなくなる。だからこそ主体性と社会性は表裏なのだ。
前回の記事で説明した絶対値2の範囲「理想」と「断念」とはこういう事だ。
(前記事で使ったグラフ↓)
・よくある話のソリューション
そしてポイントなのはここからだ。
こう言う絶対値2の範囲の問題は、はっきり言ってしまうとよくある話だ。少なくともアニメや漫画を普通に嗜んでいればこう言うジレンマと向き合う作品に出合わない方が難しいだろう。
故に答えもはっきりしている。程度の違いはあれど必ずどちらかを選ぶ。そしてその際に反対側に生じる主体性コストや社会性コストを何らかの方法で軽減すると言うやり方を取る。これはかなり完璧なソリューションでありほぼ全ての作品でそうなっていると言いきって良い。この理由は後ほど説明する。
例を出すとわかりやすいだろう。例えば
子供の為に仕事を頑張る親と、親にもっと遊んで欲しい子供の例だ。
この物語の結末は最初から決まっている。子供の為を思って頑張っている親が実は子供の為になっていなかった事に気がつき、仕事を減らすのだ。
この例で起きている事はこうだ。
親の主体性が子供に金銭的に豊かな生活をしてもらう事。
対して社会性は豊かさを諦めて子供と遊ぶ時間を作る事だ。
当然必ず社会性が選ばれる、そして社会性優先の際に支払うコスト、つまり「豊かにしたい」と言う主体性を諦める。代わりに「子供と遊ぶ時間を増やしたい」と言う別の主体性で補い、支払ったコストを軽減すると言う訳だ。
逆の例も紹介しよう
夢を追いかける子供と、その夢に反対する親の例だ。
結論は親が子供の夢を応援する方が結果的に子供の将来の為になる事に気がついて反対しなくなる。これ以外の結論はあり得ない。
この例では
子供の主体性が夢を追う事。
対して社会性は親の言う事を聞いて夢を諦める事。
この例の場合は必ず主体性が選ばれる。その際に発生するコスト、つまり「親の言う事を聞く」と言う社会性を諦める。代わりに「親が夢を反対しない」様になる事でコストそのものを踏み倒すと言う訳だ。
コストの軽減方法には様々なバリエーションがある為一概に上の例しかない訳ではないが結果はどれもこの例に倣う物しかあり得ない。どちらかを選んでコストを軽減すると言うやり方が絶対値2の範囲「理想」と「断念」のジレンマに対する一般的なソリューションだ。
・虹ヶ咲の示すソリューション
話を虹ヶ咲に戻そう。
セツナの主体性はラブライブを目指す事
セツナの社会性は同好会をやめる事
この「理想」と「断念」のジレンマも問い自体は概ねよくある話と言っていいだろう。
これをよくある例に当てはめると概ね選ばれるのは主体性だ。セツナの周りの環境がセツナと主体性を共有すれば解決する。セツナがラブライブを目指す事で誰かの主体性を蔑ろにしないような環境に変えてしまえばコストを踏み倒せると言う訳だ。
仮にもし社会性を選ぶのであればセツナ自身のやりたい事が何か別の大きな目標に変わればいい。例えばラブライブの舞台をもっといい物に作る側に回るとかでもいい訳だ。別の主体性で補えばセツナ自身が支払うコストを軽減できる。これらの結論は必然と言える。
しかし虹ヶ咲ではこの必然を凌駕する。
セツナはラブライブを目指したい主体性と同好会を辞める社会性のどちらも選ばない。
代わりに新たに「スクールアイドルとしての活動をしたい主体性と他人にそれを求めない社会性」と言う2択に問いをすり替えたのだ。問いそのものの重さを一歩下げて選び直すと言うのだ。しかもスクールアイドルをやりたい主体性を選び、代わりに他者にそれを求めない社会性を受けいれる。なんとコストを軽減せずにそのまま支払ったのだ。
(補足:ここで言う「コストをそのまま支払う」と言う行いが前記事で書いた虹ヶ咲のテーマ「何を受け入れるか?」に相当すると言う訳だ。)
こんな事は本来あり得ていいはずがない。なぜならこの作品のタイトルが「ラブライブ」だからだ。これでラブライブを目指さないと言うのだからタイトル詐欺にも程がある。実際これ以降の虹ヶ咲本編ではラブライブのラの字も出てこない。問いをすり替えるとはそういう事だ。コストを支払うとはそういう事だ。この選択があり得ない事は当然他の作品にも言える。普通に考えてこの選択は取れない。だから「理想」と「断念」のジレンマはよくある話で完璧なソリューションが存在し最初から答えが出ていると言う訳だ。
普通他の作品は「どちらかを選択する事が前提でどうやってコストを軽減するのか?」と言う描かれ方なのに対して虹ヶ咲では「コストは支払う前提でどうすれば選択できる問いにできるのか?」と言う描かれ方がされている。
だから虹ヶ咲が描く主体性と社会性のバランスへの解答は偉大なのだ。
ではなぜ虹ヶ咲ではこんな歪なやり方を取っているのでしょうか?それはラブライブと言う作品がどこまでも結果よりも過程を重視する作品だからに他ならない。
この根拠を示す為にラブライブシリーズについておさらいしてみよう。
・「スクールアイドル」である意味
ラブライブシリーズは「アイドル物」と言うジャンルに分類されるがかなり特殊な立ち位置と言っていい。それは彼女たちが「アイドル」ではなく「スクールアイドル」であると言う事につきる。それはプロにはならないと言う事であり、常に終わりと隣り合わせであると言う事。実際ラブライブではこの「終わりがある」と言う点にかなり拘りを持っており、どんなに人気でもちゃんとファイナルライブを持って終わりとし必ず次のシリーズへ移行する。ラブライブはどこまでも「アイドル」ではなく「スクールアイドル」である事に拘るのだ。
この終わりがある事によって生み出される価値こそが過程の重要性にある。
なぜならプロのアイドルには進む道に際限がない。目標を達成したら次の目標を設定しまた走る。これを繰り返す事で無限の可能性を見せてくれる。その可能性が見たいから人々は応援するのだ。これに対してスクールアイドルは目標の達成をもって終わる。(達成したかどうかに関わらず終わる。)つまり最初から終わりに向かって走っているのだ。残念ながら彼女達は無限に広がる可能性を見せてはくれない。しかしだからこそ一瞬だけ輝く儚い過程に価値があると言う事だ。
100日後に死ぬワニと言う作品がわかりやすい例だろう。
この作品はただのワニの日常を描いた作品だ。これが100日後に死ぬかどうかわからない普通の4コマ漫画であったなら特別面白い作品ではなかっただろう。しかし「このワニは100日後に死ぬ」と言う情報が加わると途端に面白くなる仕組みになっている。これこそが終わりに向かって走ると言う事実は過程を輝かせると言う事だ。
このようにラブライブはどこまでも過程を重視する。だからラブライブシリーズの全体のテーマは「何かを頑張る事、これって素敵なことだよね」なのだ。
話を戻そう、ここまで説明すればなぜ虹ヶ咲ではこんな歪なやり方を取っているのかが理解できる。「コストを軽減する」と言う事が「目的」を尊重する為の必要動作であり、過程を蔑ろにしている。「目的」とはつまり理想の事であり、すべき事(社会性)とやりたい事(主体性)だ。これらを尊重する為には問いは変更できない。同時にコストも変更できない事になる。だから本来はその変更できないコストを軽減するするしかないのだ。しかしそれは「目的」さえ達成できればよいと言う前提の元に成り立っている。つまり「目的」の為に「過程」を蔑ろにしているのだ。
だから虹ヶ咲ではこの方法は取れない。「目的」ではなく「過程」を尊重する為には「目的」の為のコストを変更しなければ叶わない。ならば「過程」の為に「目的」を諦めてしまおうと言う訳だ。
これが3話で虹ヶ咲が描いた「過程の重要性」への解答だ。
次回は6.7.8話と主体性と社会性のバランスのまとめについて書こうと思っています。