ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト感想、資本主義システムの再生産

ついに少女歌劇レヴュースタァライトが完結しました。

映画を含め作品として非常に面白かったです。

こういうハイカロリーで何回も見たくなるアニメとか映画って最近はあまり流行らないのかな?と少し寂しく思っていたので久しぶりにこの手の作品が堪能できて非常に満足度が高いです。

今回の記事はそんなレヴュースタァライトの作品全体を通した感想です。

まだ1回しか見てない上で取り急ぎ書いたのでセリフとか解釈とか割と怪しい所は多々ありますので正確な情報を持っている方は指摘して頂けると助かります。直すので。

是非お待ちしております。(円盤が出たら買うと思います。)

 

レヴュースタァライトは9人の舞台少女によるレヴューと煌めきと再生産の物語です。

物語自体はかなり小プロットだがその分レヴューによるミュージカル的な表現によって解像度を高めていくスタンスをとっている点が非常に特徴的と言えます。

このミュージカル的表現のメッセージ制が大変面白く、多角的な見方がいかようにも出来る為解釈の余地が無数にあり、見る人によって感じる事や語れる事が千差万別です。

この記事はレヴュースタァライトと言う作品が何を伝えたかったのかについての個人的な解釈を好き勝手まとめたメモみたいなものだと思って頂ければ幸いです。

 

 

①  世界を支配する資本主義システム

まずレヴュースタァライトを語る上で避けては通れない「資本主義システム」の話からしましょう。

資本主義

資本が主体となる政治体制で、それぞれが利益を追求し続ける事で競合が発生し、競争が経済を発展させる在り方。勝つ者と負ける者が現れ社会格差が生まれやすい。

  要するに闘争社会の事です。世界中の人間全員が平等な水準で生活する事は不可能である事が自明なのは「力なき者は力ある者に食われる」と言う当たり前の資本主義原則によって世界経済が回っているからに他なりません。

そしてこの資本主義システムは単なる経済のシステムのみに留まりません。

ゲームやスポーツなど世の中のありとあらゆる物は資本主義システムに支配されています。

もちろん舞台少女のオーディションも例外ではありません。

この物語で彼女たちに降りかかる最初の試練は何といってもこの資本主義システムの呪いです。

 

(キリン)

レヴュー、それは歌とダンスが織りなす魅惑の舞台。

最も煌めいたレヴューを魅せてくれた方にはトップスタァへの道が開かれるでしょう。

トップスタァを目指して、歌って、踊って、奪い合いましょう。

 

キリンからの招待により、トップスタァを決めるオーディションが始まります。

しかしこのオーディションは1番を決める為だけのもので、蓋を開けてみれば負けた残りの8人の煌めきが奪われると言うとんでもない争奪戦です。煌めきが奪われるリスクを説明せずに、願いが叶うと言うメリットのみが提示されている点はまどマギのきゅうべぇのそれと寸分違わない詐欺まがいのオーディションである事は言うまでもありません。

 

実際このリスクは話が進むにつれて徐々に明らかになり、その問題から目を背けられなくなっていきます。これこそが現在我々を含めた世界を支配している資本主義システムの呪いと言う事です。

 

「トップを目指す」ということは直ちに「他人からトップの座を奪い取る」という行いであると共に「トップの座を奪われる」という事でもある訳です。

我々が上を目指し続ける限りにおいて闘争は絶対に避けては通れず、誰かがトップになった暁にはその下に必ず敗者という名の犠牲を大量に生むことになってしまいます。

レヴュースタァライトではこの犠牲者に対する問題意識が非常に色濃く表現されており、資本主義システムに対してかなり批判的です。

そもそも「戯曲スタァライト」という演目のストーリーが既に残酷極まりない。

 

また繰り返すのね、絶望の輪廻を

二人の夢は叶わないのよ

 

なぜ二人の夢は叶わないのか?

星を摘んでクレールが記憶を取り戻したと同時にフローラはその星の光に目を焼かれて塔から落ちる。この「二人の夢はかなわないのよ」という現実がまさに資本主義システム最大の問題点であり、彼女たちを絶望の輪廻へと誘い引き裂きます。

 

小さな星を摘んだなら、あなたは小さな幸せを手に入れる

大きな星を摘んだなら、あなたは大きな富を手に入れる

その両方を摘んだなら、あなたは永遠の願いを手に入れる

 

「戯曲スタァライト」でおなじみのこのセリフは資本主義システムにおける非常に当たり前の事を言っています。「小さな星を摘んだなら、あなたは小さな幸せを手に入れる」つまり皆がもっと大きな星を掴もうとしている中で、小さな星しか掴めない様ではそれ相応の幸せしか手に入らない。そしてそれらの星を両方とも摘んで一人占めすることもできてしまうという事です。これが資本主義システムの原則であり、隠された暴力性です。

 

この暴力性のわかり辛さは振り返ってみれば「最も煌めいたレヴューを魅せてくれた方にはトップスタァへの道が開かれるでしょう。」とキリンがメリットだけを提示した詐欺まがいの文言と全く同じです。

 

このようにレヴュースタァライトでは資本主義システムのデメリットを浮き彫りにするような表現が各地に散りばめられており、資本主義システムが生む犠牲に対してかなり問題視している事が伺えます。各回での主役が勝者側ではなく敗者側になりやすいのもこの為だと言えます。

 

②資本主義システムの否定、「停滞」

そして迎える1回目のロンド(アニメで言うと第7話)ではついにこの残酷な資本主義システムからの脱却が試みられる事になります。

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(バナナ)

私の「再演」の中にいれば何も怖くない

成長することも大人になることもない

自分を追い込む苦しみ、新しいものに挑む辛さ

傷ついて道をあきらめる悲しみからみんなを守ってあげる

 

バナナは資本主義システムの犠牲者を出さない為のカウンターとして「再演」、つまり犠牲者が出る前にリセットボタンを押し続けてループする、と言う手段を選ぶことになります。資本主義システムをループの中に閉じ込めてしまう事によって無限に上を目指す資本主義の「停滞」に成功します。

 

しかしこの方法はその場しのぎの気休めに過ぎないことを理解しなくてはなりません。なぜなら「犠牲者が出る前にリセットボタンを押す」と言う事は直ちに「誰も願いを叶えられない」事と同義だからです。

そもそも犠牲を受け入れて、それでもなお資本主義システムに主体的に参加している人からすると「犠牲を無効にする為に願いを諦める」などと言う選択肢を取らされるなど最悪だ。それこそ資本主義システムを受け入れた覚悟そのものまで無力化してしまっているので、そういう意味で別の犠牲者が出ていることになります。

つまり「再演」による資本主義システムの無効化は、全体の理想の形などでは全くなく、バナナの価値観に基づいた個人的な理想を他者に押し付けているだけに過ぎない。さながらエヴァンゲリオンの「人類補完計画」となんら変わらない傲慢なやり方だという事です。

  

しかし実際にはこの「別の意味で犠牲者が出る」という問題は、バナナが頂点に君臨し続ける限りにおいてはなんの問題にもなりません。なぜならループの事実が隠蔽できてしまうからです。バナナだけが理想を叶えて、他の舞台少女達の覚悟と理想が蔑ろにされていると言う事実に誰も気付く事ができません。犠牲者達が自らの犠牲を認識できない事によって一つの最強のソリューションたり得ているという訳です。

 

予め定められた(運命の)レールの上で「第99回聖翔祭」という舞台を演じ続けるバナナの姿はまさに「運命の舞台」という名に相応しい。ここまで徹底すればバナナ次第で本当に犠牲者0で永遠に資本主義システムの呪いを回避することができます。

 

しかしループ外からの訪問者、神楽ひかりの出現によってこの「再演」はいとも簡単に崩れ去ります。なぜならバナナは「停滞」を望むが故に成長する事を諦めてしまっているからです。繰り返す世界の中でバナナはトップですがループに異物が混入した瞬間に力関係の逆転が見込まれてしまいます。それはばなな以外の舞台少女達はバナナの「停滞」と言う選択に同意していない状態で付き合わされているからにほかなりません。

 

異物の有無とは関係なく停滞を望むバナナにはとって、異物がプラスに働くことはありません。しかしバナナ以外の舞台少女は依然として資本主義システムの中にいると思い込んでいる訳ですから、異物の影響を受けて成長が見込めます。最終的にこの異物によって閉じ込めたはずのループの中で加速してしまった(停滞に失敗した)資本主義システムに太刀打ちできずバナナは敗北します。

停滞によって資本主義システムを閉じ込めると言うやり方の脆弱性が露呈してしまった当然の結果と言えます。

 

(華恋)

ノンノンだよバナナ!

舞台少女は日々進化中

同じ私たちも同じ舞台もない

どんな舞台もその一瞬で燃え尽きるから

愛おしくて、かけがえがなくて

価値があるの!

 

(バナナ)

守りたかったの、みんなを

ひかりちゃんが来て、かれんちゃんが変わって、みんなもどんどん変わって、私の再演が否定されていくみたいで怖かった。

私、間違ってたのかな?

 

 

この回では舞台少女の「煌めきとは何か?」と言う煌めきの再定義が行われたと言っていいでしょう。

 

(キリン)

奇跡と煌めきの融合が起こす化学反応

一瞬の燃焼、誰にも予測できない運命の舞台

私はそれが見たいのです。

 

煌めきの本質は「一瞬」です。そしてそれは誰も見た事のない予測不能である事にこそ価値があると言う事です。バナナの再演にはそれがなかったと言う訳ですね。 

 少し脱線しました、話を戻します。

 

③資本主義システムの否定2、「罪」と「罰」

残念ながら資本主義システムからの脱却の試みとして「停滞」は失敗に終わりました。そしてその後、資本主義システムの犠牲と向き合う役割はひかりが引き継ぐ事になります。 

 

(ひかり)

あの星を掴もうとして、煌めきを失くした

掴めなかったから、今度は奪おうとした

愚かで罪深い私の運命の舞台

 

バナナは資本主義システムそのものを停滞させてしまおうと言うやり方を取ったのに対して、ひかりは「トップに立つ事を罪として、その罰を受ける」と言う手段を取ります。

本来の資本主義システムは闘争の果てに他人から奪う事になったとしても「負けたやつが悪い」と言う原則に則りあらゆる倫理的問題を無効にしています。

だからひかりはこの原則を破壊して社会主義的な解決で資本主義システムの打倒を試みます。

どういう事かと言うと、例えば業界で1位を取れば2位以下の客を大量に奪う事ができます。しかしだからと言って「1位は2位以下の客を奪った罪を償わなければならない、2位以下に賠償すべき」などと言う暴論が裁判で成立しないのは我々の住む世界が資本主義社会だからに他なりません。

しかしひかりはこう言う資本主義システムからしたら暴論に近い思想をトップに立った上で自らが受ける事によって資本主義システムその物を破壊しようと言う訳です。

これならそもそも闘争が発生しません。闘争さえ無くしてしまえば犠牲者も出ません。

一応資本主義システムの犠牲への解答にはなり得ていると言えるでしょう。

 

しかしこれもすぐさま打開されてしまいます。

(華恋)

ひかりちゃんが罪深いって言うなら

オーディションに参加した私達全員同罪だよ!

奪っていいよ、私の全部

だからひかりちゃんを私に、全部頂戴!

 

ここで華恋は「罪に問われるべきは1位ではなく全員である。」と言う主張を軸に闘争社会の必然性を肯定します。当然これでひかりの思想は看破できます。

ここで重要なのはこの思想がひかりの思想に対する解答である事ではなく、資本主義システムへの解答でもあると言う事です。

闘争に参加した段階で全員が罰を受けるべき対象である事を参加者が自覚したのであればその中で出る犠牲は資本主義システムによる暴力的な犠牲ではありません。

正当な手順が踏まれた「罰」と言うニュアンスに「犠牲」を変換してしまう事ができる訳です。

しかし「犠牲」のニュアンスが「罰」に変わった所で敗者側が救われる訳ではないので本質的な解決になっているかはかなり怪しいです。

そこで重要なのはここからです。

ひかりに敗北した華恋はそのまま地に落ちて行きます。

しかし華恋はこのままでは終わりません。

 

(華恋)

ノンノンだよ

スタァライトは必ず別れる悲劇

でもそうじゃなかった結末もあるはず

もう一度立ち上がって塔を上ったフローラもいたはず

 

舞台少女は何度だって立ち上がる

「アタシ再生産」

 

ここで出て来るソリューションが「再生産」です。

資本主義システムの暴力的な犠牲を自らの「罪」であると受け入れる事で古い自分を燃焼し再出発すると言う解答が提示されます。

 

どういう事かと言うと、制裁のシステムを利用した更生によって資本主義システムはそのままに、犠牲のみを無効にしようと言う試みです。

制裁のシステムとは「犯罪者を罰によってその罪の重さを自覚し、更生しましょう」と言う警察の公務として普通に行われているシステムの事です。つまり「再生産」とは罪と罰を受け入れて(古い自分を燃焼し)更生する(立ち上がる)と言う事です。

 

これによって資本主義システムの犠牲は「罪と罰」によって燃焼され、更生した新しい自分で何度でも立ち上がる事ができます。こうして華恋は犠牲のみを無効にし、再生産された資本主義システムで消極的社会主義のひかりを打倒します。

これがアニメ版におけるレヴュースタァライトの結論です。

 

しかし再生産総集編ロンド・ロンド・ロンドではこうしてハッピーエンドに思われたアニメ版の結論に異議を唱えることになります。

(キリン)

戯曲スタァライトは作者不詳

あなた達が終わりの続きを始めた

ならば…わかります

 

(バナナ)

舞台少女の、死

 

彼女達と資本主義システムとの闘いはまだ終わっていません。

ロンド・ロンド・ロンドまでの(アニメ版までの)話は一度ここで区切れます。

ここから先は劇場版レヴュースタァライトの内容になります。

 

④資本主義システムは最後の問題へ

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ならばその先は?

次のセリフは?

次のあなたの出番は?

 

私たちはもう、舞台の上

 

完全に攻略したかに思えた資本主義システムは次の問題へと移行します。

ロンド・ロンド・ロンドまでに散々資本主義システムと戦ってきました。そして資本主義システムからの脱却は失敗に終わり、最終的には「資本主義システムの中で再生産によって犠牲を無効化する」と言う方法でもって制する事となりました。

 

 「私たちはもう、舞台の上」

 

 「舞台」=「資本主義システム」の事です。

つまり彼女達の選んだ道はもう一生資本主義システムの上であり、絶望を避ける為に罪と罰によって自分を燃焼し続け、再生産を繰り返さなければならないと言う事です。

そして一度脱却を試みたバナナには再生産によって解決した資本主義システムの行き着く先が見えています。

(バナナ)

舞台少女の、死

 再生産には贖罪と言う燃料が必要です。ではその燃料は果たして無限に供給されるのでしょうか?

この問題に対して最初に音を上げるのは香子です。

 

(香子)

しょうもな

トップスタァになれなかった自分を

もう受け入れたんか?

うちは帰らせて貰いますんで

 

うちが一番…しょうもないわ

 

香子にはもう立ち上がる力が、自らを再生産する為の燃料が残っていないのです。

資本主義システムの犠牲と言う問題は再生産によって解決された訳ですが、仮にこれ以上再生産できない状態まで来てしまった場合、また資本主義システムの呪いが彼女達に襲い掛かる事を意味しています。

つまり「舞台少女の死」とは再生産の為のエネルギー切れの事です。

再生産によってもう一度立ち上がる為にはトップを目指すと言う罪を犯さなければなりません。つまり罪を犯す為にはそもそもトップを目指す意思がなければならないと言う事です。その意思が死んだ瞬間にゲームオーバー、資本主義システムの闇に飲まれ煌めきを奪われる事になるでしょう。

 

 再生産と言う解答はトップを目指す、つまり罪を犯す勇気が必要でありそれは個人の意思の強さへの依存度が高いが故に本質的な心の強度の限界が直接資本主義システムの犠牲へと直結します。

これが劇場版レヴュースタァライト最大の問題提起であり彼女たちがこれから向き合わなければならない最後の問題です。

 

当然華恋もこの問題に直面する事になります。

華恋はひかりとの約束を糧にして(燃料にして)これまで頑張ってきた訳ですが、第100回聖翔祭でひかりとの約束は果たされました。では華恋はここから先何を燃料にすればいいのでしょうか?

(ひかり)

華恋、でも、私達の舞台は

まだ、終わっていない

私達はもう、舞台の上

(ここで列車の音)

 

華恋はバナナとひかりの資本主義システムからの脱却を阻止し、資本主義システムの中で生きていく事を示した張本人です。それができたのは華恋には「約束」と言う結末が存在したからに他なりません。その結末があったからこそ、そこに向かって走る事ができた、立ち上がる事ができた。しかしここで華恋の燃料は尽きます。

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劇場版では華恋の贖罪(食材、トマト)が壊れる描写から始まります。華恋は卒業に向けて進路を決める事になるのですが、その進路を空欄のまま提出するのは、今まさに華恋がトップを目指すと言う罪を犯す為の燃料が尽きている事を物語っています。

されど舞台はつづく

The Show Must Go On 

 

資本主義システムは残酷なので永遠に止まる事はありません。例え彼女の燃料が尽きようがお構いなし、そのまま資本主義システムという名の現実の舞台は続きます。

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この問題にバナナは一早く到達します。

 

(バナナ)

列車は必ず次の駅へ

では私たちは?

 

列車とは資本主義システムの事です。香子のザマを見たバナナはこの無限に続く残酷な列車に乗り続ける事ができるのか?再生産の為の燃料を絶えず供給し続ける事が本当にできるのか?とこの映画の主題を問います。

⑤最後の問題への回答

さて、ここからはこの「燃料の不足問題」への回答が少しづつ示されていく訳ですが、果たしてどうなるのでしょうか?ヒントは皆殺しのレヴューでバナナとキリンが示します。

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(バナナ)

自然の摂理なのね

舞台が望むなら

 

なんだか自分じゃないみたい

強いお酒を飲んだ気分

舞台が望むなら、どんな私にもなれる

 

(キリン)

あぁ…

私にも役目があったのですね

(キリンが食材(贖罪)になる)

 

あれほど資本主義システムを毛嫌いしていたバナナですがついに自分を捨てます、そしてまるでお酒を飲んでいるかのような「役」に回り、資本主義システムに適用しようとしています。バナナは資本主義システムへの回答である「再生産」を本質的な何かへの執着を燃料とした心の再生産ではなく、芝居的「虚勢」によって自分自身を再生産している訳です。

そしてその燃料となるのかキリン(食材)つまり「観客」です。誰も見ていない状態で張る虚勢には何の意味もありませんが、誰かが見ている時に張る虚勢には罪を犯す力が、つまり資本主義システムに立ち向かう為の力があると言うことです。

そう考えるレヴュースタァライトが何故舞台少女と言う題材を扱ったのかにも納得が行くと言うものです。今回の映画の結論はこれです。

この後の話は虚勢による自らの再生産にはどのような手順を踏む必要があるのか?についての補足がされて行く事になります。

はい、未完成です!

怖いですよね、でも怖くて当たり前です!

 

ここでは結末の続きを描く事の恐怖を明確に示しています。そしてそれが当たり前である事を確認しています。

 

(双葉)

もう一緒には行けない

いつか香子の隣に立つ為に!

 

(香子)

鬱陶しいわ、さっきからしょうもな

本音さらせや

 

ここで一体何が行われいるのかと言うと、「本音の確認」です。バナナが示した通り残酷な資本主義システムに再生産で立ち向かう為の燃料が切れた時の回答は「虚勢」です。現実と言う舞台で自分と言う「役」を演じる事で偽りの煌めきを生み出すと言う訳です。この煌めきは偽りであるが故に華恋が約束の為に放っていた煌めきと比べると純度が低い事は認めるしかありません。そこでこの偽りの煌めきの純度を限りなく本物に近づける為に(強いては超えていく為に)必要になってくるのがこの「本音の確認」です。

 

双葉はこのシーンで全くと言って良いほどに本音を見せません。「何がしたいか」ではなく「何をすべきか」と言う文脈で戦っています。こう言う嘘で誤魔化そうとする虚勢は弱いです。「役」を演じると言う事は逃避ではなく立ち向かう為の力でなくてはなりません。その為に必要なのは本音の自覚です。まず資本主義システムに負けそうな本音を認め、その上で本音を燃料として虚勢を再生産する事によって煌めきの純度を強固にすると言う訳です。

 

(まひる)

どうして華恋ちゃんから逃げたの?

本当は?
(ひかり)

本当は怖かった…

 

(バナナ)

それはあなたの言葉?

本当はもう何も見えないくせに

(純那)

いや、他人の言葉じゃダメ

あなたに与えられた役割はいらない!

 

(真矢)

奈落で見上げろ、私がスタァだ!

(クロ)

あんた、今までで一番かわいいわ

(真矢)

私はいつだってかわいい!

 

このように今回のレヴューでは9人全員の「本音の確認」がひたすらに行われていきます。これは彼女たちの「虚勢」を再生産する為の必要動作であり、残酷な資本主義システムと戦う為にトップを目指すと言う罪を犯す決意でもある訳です。

 

 

それでは最後に約束を果たし何者でもなくなった華恋の再生産の話をして終わりたいと思います。

 

(バナナ)

見つけなければいけない

みんなに立つべき舞台があるように

この道の果てにある、あなただけの舞台を

 

(華恋)

私だけの舞台って、なに?

わかんないよ

 

ひかりとの約束を果たしてしまった事によって華恋は目指す物がなくなりました。映画冒頭で約束の象徴である東京タワー(約束タワー)が粉々になる描写は今まさに華恋の燃料が尽きた事を物語っています。

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 華恋は次の目的がない事に対してかなり自覚的に問題視しており、自分だけの舞台を探します。しかし何度考えても華恋にとってはひかりが全てであり、ひかりなしでは資本主義システムと戦えるだけの燃料を確保できません。何を目的にするにしても手段と目的の昏倒が避けられず煌めきが足りません。と言うのも華恋は残念ながらもう「ひかりとの約束」と言う運命によって生産された目的に代わる物を運命ではない手段としての目的しか用意する事ができず、運命を超える事は一生叶わないという訳です。

これによって資本主義システムの上で生きていく事を選んだ華恋にはもう生き残る道は用意されておらず、このままでは死ぬしかありません。

 そして華恋はついに資本主義システムと言う舞台の上で死にます。しかし死んだ華恋は棺桶から復活し自らの再生産に成功します。

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これは何が起きたのかと言うと、「一度死ぬ」と言うのが華恋にとっての「本音の確認」であり虚勢を再生産する為の必要動作だったという事です。

 こうして華恋は運命なき目的を再生産の為の手段として作れないことを認め、「愛城華恋の人生」と言う名の運命の舞台の上で「資本主義システムの上でも生きていける愛城華恋」と言う役を演じる覚悟でもって虚勢を再生産し、新たな燃料を確保した事で物語は幕を閉じます。

 

我々は残酷なこの世界を生きていく中で、本音だけでは立ち向かえない事は誰にでもあります。そんな時に我々を救うのは「立ち向かえる自分を演じる」と言う狂気です。人は皆、少なからず自分と言う役を演じる舞台少女です。

なぜなら

この世界は私たちの、大きな舞台なのだから。

 

 

3話から見る虹ヶ咲の問いとラブライブのテーマ

前回の記事の続きです。

前回↓

虹ヶ咲の描く主体性と社会性の補足① - ぴんぷくの限界オタク日記

主体性(145)

社会性(210)

これらの紹介をし残りを今回の記事で説明しようと思っていたのですが想像以上に3話の説明が長くなってしまったので3話だけで一回区切ります。

残りはまた次の記事で紹介します。

 

と言う訳で

主体性と社会性のバランス(3678)

↑これの3話について紹介したい。

 

それでは早速3話を見て行こう。

・セツナの抱える主体性と社会性のジレンマ

主体性と社会性は表裏でありそれ故のジレンマを常に抱えている。これは前回の記事で説明した通りだ。主体性を優先すると必ず社会性が蔑ろになり逆もしかりと言う関係になっている。

3話はこのジレンマがもたらす問題をどの様に解決すべきなのか?と言う問いになっている。

セツナの主体性はスクールアイドルとして活動する事、そして理想はラブライブに出場する事。だからその為にセツナは同好会を立ち上げた。

つまり「やりたい事」がラブライブであり「やるべき事」がその為の厳しい特訓だ。

これがセツナの主体性だ。

 

しかしセツナのやり方ではメンバーの主体性を蔑ろにしてしまう事を知った。これをセツナは重く受け止める。結果としてセツナは同好会を解散しスクールアイドルを辞める事を選んだ。

これがセツナの選んだ社会性だ。

 

この2つが両方立つ事はあり得ない。主体性を優先すれば必ず他者の気持ちが疎かになり、社会性を優先すれば必ず自分の「やりたい事」ができなくなる。だからこそ主体性と社会性は表裏なのだ。

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前回の記事で説明した絶対値2の範囲「理想」と「断念」とはこういう事だ。

(前記事で使ったグラフ↓)

 

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・よくある話のソリューション

そしてポイントなのはここからだ。

こう言う絶対値2の範囲の問題は、はっきり言ってしまうとよくある話だ。少なくともアニメや漫画を普通に嗜んでいればこう言うジレンマと向き合う作品に出合わない方が難しいだろう。

故に答えもはっきりしている。程度の違いはあれど必ずどちらかを選ぶ。そしてその際に反対側に生じる主体性コストや社会性コストを何らかの方法で軽減すると言うやり方を取る。これはかなり完璧なソリューションでありほぼ全ての作品でそうなっていると言いきって良い。この理由は後ほど説明する。

 

例を出すとわかりやすいだろう。例えば

子供の為に仕事を頑張る親と、親にもっと遊んで欲しい子供の例だ。

この物語の結末は最初から決まっている。子供の為を思って頑張っている親が実は子供の為になっていなかった事に気がつき、仕事を減らすのだ。

 

この例で起きている事はこうだ。

親の主体性が子供に金銭的に豊かな生活をしてもらう事。

対して社会性は豊かさを諦めて子供と遊ぶ時間を作る事だ。

 

当然必ず社会性が選ばれる、そして社会性優先の際に支払うコスト、つまり「豊かにしたい」と言う主体性を諦める。代わりに「子供と遊ぶ時間を増やしたい」と言う別の主体性で補い、支払ったコストを軽減すると言う訳だ。

 

逆の例も紹介しよう

夢を追いかける子供と、その夢に反対する親の例だ。

結論は親が子供の夢を応援する方が結果的に子供の将来の為になる事に気がついて反対しなくなる。これ以外の結論はあり得ない。

 

この例では

子供の主体性が夢を追う事。

対して社会性は親の言う事を聞いて夢を諦める事。

 

この例の場合は必ず主体性が選ばれる。その際に発生するコスト、つまり「親の言う事を聞く」と言う社会性を諦める。代わりに「親が夢を反対しない」様になる事でコストそのものを踏み倒すと言う訳だ。

 

コストの軽減方法には様々なバリエーションがある為一概に上の例しかない訳ではないが結果はどれもこの例に倣う物しかあり得ない。どちらかを選んでコストを軽減すると言うやり方が絶対値2の範囲「理想」と「断念」のジレンマに対する一般的なソリューションだ。

 

 

・虹ヶ咲の示すソリューション

話を虹ヶ咲に戻そう。

セツナの主体性はラブライブを目指す事

セツナの社会性は同好会をやめる事

 

この「理想」と「断念」のジレンマも問い自体は概ねよくある話と言っていいだろう。

これをよくある例に当てはめると概ね選ばれるのは主体性だ。セツナの周りの環境がセツナと主体性を共有すれば解決する。セツナがラブライブを目指す事で誰かの主体性を蔑ろにしないような環境に変えてしまえばコストを踏み倒せると言う訳だ。

 

仮にもし社会性を選ぶのであればセツナ自身のやりたい事が何か別の大きな目標に変わればいい。例えばラブライブの舞台をもっといい物に作る側に回るとかでもいい訳だ。別の主体性で補えばセツナ自身が支払うコストを軽減できる。これらの結論は必然と言える。

 

しかし虹ヶ咲ではこの必然を凌駕する。

セツナはラブライブを目指したい主体性と同好会を辞める社会性のどちらも選ばない。

代わりに新たに「スクールアイドルとしての活動をしたい主体性と他人にそれを求めない社会性」と言う2択に問いをすり替えたのだ。問いそのものの重さを一歩下げて選び直すと言うのだ。しかもスクールアイドルをやりたい主体性を選び、代わりに他者にそれを求めない社会性を受けいれる。なんとコストを軽減せずにそのまま支払ったのだ。

(補足:ここで言う「コストをそのまま支払う」と言う行いが前記事で書いた虹ヶ咲のテーマ「何を受け入れるか?」に相当すると言う訳だ。)

 

こんな事は本来あり得ていいはずがない。なぜならこの作品のタイトルが「ラブライブ」だからだ。これでラブライブを目指さないと言うのだからタイトル詐欺にも程がある。実際これ以降の虹ヶ咲本編ではラブライブのラの字も出てこない。問いをすり替えるとはそういう事だ。コストを支払うとはそういう事だ。この選択があり得ない事は当然他の作品にも言える。普通に考えてこの選択は取れない。だから「理想」と「断念」のジレンマはよくある話で完璧なソリューションが存在し最初から答えが出ていると言う訳だ。

 

普通他の作品は「どちらかを選択する事が前提でどうやってコストを軽減するのか?」と言う描かれ方なのに対して虹ヶ咲では「コストは支払う前提でどうすれば選択できる問いにできるのか?」と言う描かれ方がされている。

だから虹ヶ咲が描く主体性と社会性のバランスへの解答は偉大なのだ。

 

 

ではなぜ虹ヶ咲ではこんな歪なやり方を取っているのでしょうか?それはラブライブと言う作品がどこまでも結果よりも過程を重視する作品だからに他ならない。

この根拠を示す為にラブライブシリーズについておさらいしてみよう。

 

 

・「スクールアイドル」である意味

ラブライブシリーズは「アイドル物」と言うジャンルに分類されるがかなり特殊な立ち位置と言っていい。それは彼女たちが「アイドル」ではなく「スクールアイドル」であると言う事につきる。それはプロにはならないと言う事であり、常に終わりと隣り合わせであると言う事。実際ラブライブではこの「終わりがある」と言う点にかなり拘りを持っており、どんなに人気でもちゃんとファイナルライブを持って終わりとし必ず次のシリーズへ移行する。ラブライブはどこまでも「アイドル」ではなく「スクールアイドル」である事に拘るのだ。

 

この終わりがある事によって生み出される価値こそが過程の重要性にある。

なぜならプロのアイドルには進む道に際限がない。目標を達成したら次の目標を設定しまた走る。これを繰り返す事で無限の可能性を見せてくれる。その可能性が見たいから人々は応援するのだ。これに対してスクールアイドルは目標の達成をもって終わる。(達成したかどうかに関わらず終わる。)つまり最初から終わりに向かって走っているのだ。残念ながら彼女達は無限に広がる可能性を見せてはくれない。しかしだからこそ一瞬だけ輝く儚い過程に価値があると言う事だ。

 

100日後に死ぬワニと言う作品がわかりやすい例だろう。

この作品はただのワニの日常を描いた作品だ。これが100日後に死ぬかどうかわからない普通の4コマ漫画であったなら特別面白い作品ではなかっただろう。しかし「このワニは100日後に死ぬ」と言う情報が加わると途端に面白くなる仕組みになっている。これこそが終わりに向かって走ると言う事実は過程を輝かせると言う事だ。

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このようにラブライブはどこまでも過程を重視する。だからラブライブシリーズの全体のテーマは「何かを頑張る事、これって素敵なことだよね」なのだ。

 

話を戻そう、ここまで説明すればなぜ虹ヶ咲ではこんな歪なやり方を取っているのかが理解できる。「コストを軽減する」と言う事が「目的」を尊重する為の必要動作であり、過程を蔑ろにしている。「目的」とはつまり理想の事であり、すべき事(社会性)とやりたい事(主体性)だ。これらを尊重する為には問いは変更できない。同時にコストも変更できない事になる。だから本来はその変更できないコストを軽減するするしかないのだ。しかしそれは「目的」さえ達成できればよいと言う前提の元に成り立っている。つまり「目的」の為に「過程」を蔑ろにしているのだ。

 

だから虹ヶ咲ではこの方法は取れない。「目的」ではなく「過程」を尊重する為には「目的」の為のコストを変更しなければ叶わない。ならば「過程」の為に「目的」を諦めてしまおうと言う訳だ。

 

これが3話で虹ヶ咲が描いた「過程の重要性」への解答だ。

 

 

次回は6.7.8話と主体性と社会性のバランスのまとめについて書こうと思っています。

 

虹ヶ咲の描く主体性と社会性の補足①

今回の記事は2部構成になります。(予定)

アニメ本編で主体性と社会性について、実際どのように描かれているのかを説明しないと恐らく前回の記事の内容がよくわからないものになってしまうような気がしたので今これを書いている。

 

前回の記事では虹ヶ咲が「自分がどうしたいかを考えて、頑張る過程を大事にしよう」そして「自分の弱さを受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」と言うテーマで描かれている事を紹介したのが一つ。↓

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について - ぴんぷくの限界オタク日記

 

そしてもう一つは虹ヶ咲が示したソリューション、主体性(やりたい事)と社会性(やるべきこと)のバランス絶対値1.5の範囲と言う内容を紹介した。↓

虹ヶ咲の描く主体性と社会性、前回の記事の謝罪 - ぴんぷくの限界オタク日記

 

各回はこれらのテーマがどのような状況でどのような理由で正しいとするのか?と言う方向性でかなり隙がなく描かれており大変説得力がある。

ラブライブはシリーズ毎でもそうなのだが、大きなテーマに対して発生する小さな疑問を自ら生み出してその問いに各回で答えて行き、大きなテーマが正しい事の根拠としている。今回はそれらがどのような描かれ方がされていて、どのような説得力を持つのかを実際に見て行こうと思う。

 

・虹ヶ咲の各話が描くテーマ

虹ヶ咲の各話を疑問と解答セットで分けると

主体性とは何か?

1話、4話、5話

社会性とは何か?

2話、10話

主体性と社会性のバランス

3話、7話、11話、12話

他者とは何か?

6話、8話

友達とは何か?

9話

 

今回の記事では ひとまず「主体性とは何か?」と「社会性とは何か?」の説明に抑えるつもりだ。具体的な話数で言うと1.2.4.5.10話だ。

残りの3.6.7.8.9.11.12話については次回の記事で書こうと思う。

 

それでは1話から順番に見て行こう

1話はそもそも主体性とはなにか?と言う問いへの解答を描いた回だ。

主体性とは言い換えると「やりたい事」だ。しかしこの言い換えはあまり適切ではない。

では一体「やりたい事」の中で何が主体的で何が主体的ではないのか?と言う事を示す事で主体性の所在を説いた。

 

ここで比較されているのは以下2点

①アユムのやりたい事=ユウと一緒に何かをする事。

②アユムのやりたい事=スクールアイドルとしての活動をする事。

 

この2つは両方ともアユムの「やりたい事」であり両方とも主体的であると取れるのだが、虹ヶ咲は「この2つは本当に同じか?」と問いている。結論から言うとこの2つは明確に異なり②こそが尊重すべき主体性であると解答している。

 

どういう事かと言うと①は

「何かをする事」=手段で

「ユウと一緒にいる事」=目的だ。

対して②は「スクールアイドルとして活動する事」=手段で

「なりたい自分になる事」=目的だ。

この二つは一見同じ様に見えるが全然違う。

 

なぜなら②は目的である「なりたい自分になる事」の為の手段として「スクールアイドルとして活動する事」を自ら選択していて替えが利かない。ちょっとした外的要因では簡単には諦められない事になる。つまり「やりたい事」には必ず「やるべき事」が付きまとうのだ。これこそが主体性である。

 

対して①は手段そのものが目的になってしまっている為、もはや手段がなんでもいい事になっている。仮にそれが「スクールアイドルとして活動する事」を選択したとして、その選択にはいくらでも変えがある為外的要因で簡単に諦めが着いてしまう、つまり①の「やりたい事」は「やらなくてもいい事」なのだ。これは主体的であるとは言えない。

 

主体性と言うニュアンスの「やりたい事」には「やるべき事」が必要であり「やらなくていい事」であってはならないのだ。そしてアユムにはついにそういう意味で「本当のやりたい事」ができたと言う事を示した回が1話だった訳だ。

 

次に4話です。

この回は1話で示した主体性とは何か?と言う問いの続きだ。

「やるべき事」と直結していればその「やりた事」は全て主体性なのか?と言う問いである。

アイは成績優秀スポーツ万能で趣味は部活の助っ人と非常に高スペックだ。これはアイがそれら全てを楽しいと思って取り組んでいるからに他ならない。そういう意味ではアイは「やりたい事」を全うしているし勉強や運動は当然「やるべき事」だ。

 

しかしこの回でアイは「正解がある物は楽でいい、自分の考えなんて必要ないから」と感じる用になる。アイにとっては勉強もスポーツ簡単なのです。なぜなら自分らしさが問われずただやるべき事をすればいいからです。しかしスクールアイドルには正解がない。何をすべきかが人それぞれで、そこには「自分らしさ」が問われている。そしてそれは自分が「やりたい事は何か?」に依存するので自分で考えなければなりません。

 

この回で示す主体性はここにある。

「やりたい事」は「やるべきこと」がついて回るだけではいけないと言う事です。たとえその「やるべきこと」が「やらなくていい事」ではなかったとしてもそれが受動的な行いならばそこに主体性はないと主張しています。つまり主体性の所在は「やりたい事」を自分で見つけて「やるべき事」を自分で考える事にこそあると言う訳ですね。

 

続いて5話です。

5話は自分の為ではなく誰かの為に活動する事を「やりたい事」とするのは主体性と呼べるのだろうか?と言う問いだ。

確かに他人の為の活動と言うのは社会性的な活動なのではないか?それは主体的と言えるのか?と言う疑問はもっともだ。実際社会性とは「他人の為の活動」と理解して間違いはないはずだ。5話ではこの疑問に対する解答が描かれている。

エマは「みんなの心をぽかぽかにする」と言うのがスクールアイドル活動をやる上での目的となっている。しかし親友であるカリンがスクールアイドルに興味を持っているにも関わらず不安な思いが優ってしまいスクールアイドルから距離を取っていた事を知る。これはエマにとっては大問題だ、なぜならみんなどころか親友の心すらもぽかぽかにできていないのだから。そこでエマは歌でカリンがスクールアイドルになる勇気を与えました。そして二人は共にスクールアイドル活動に励む事となります。

さて、この一連の活動はエマにとって本当に他人の為だけの行いだったと言えるでしょうか?もちろん違うでしょう、仮にカリンがスクールアイドルから距離を取る事をエマが尊重してしまった場合確実にエマはその選択を後悔する事になります。つまりエマはちゃんと主体性を持って自分の為の行動を取っているのです。

 

これが他人の為に活動する事を「やりたい事」とする事が主体性と呼べる根拠になっています。

 

続いては2話と10話の社会性とは何か?について見て行きましょう。

 

2話では社会性がなんの為に存在するのか?と言う事が描かれている。

カスミンとセツナの主体性同士がぶつかってしまう。これらの主体性はどちらをどの様に尊重すればいいのか?と言う問いになっており、結論としては「他人の主体性が尊重されない様な自分の主体性は尊重できない。」と解答している。そしてこの時に発生する「自分の主体性が尊重されない」と言うパターンが起きる事こそが社会性なのだ。

 

この回ではカスミンが自分の主体性を蔑ろにされない為にセツナに対して社会性を要求した。結果として同好会は解散した。そしてその後カスミンは新たに立ち上げた仮の同好会でスクールアイドル初心者であるアユムに自分のやり方を教え込む。しかしそうして教えているうちにカスミンは自分のやり方をアユムに押し付けている事に気がつく。これはアユムの主体性を蔑ろにしている行為でありセツナと同じだ。カスミン「他人の主体性が尊重されない様な自分の主体性は尊重できない。」と言う事を知った。つまり社会性の存在意義は他者の主体性を尊重する事であり、その代わり他者にも自分の主体性を尊重してもらう。と言う意味なのだ。

 

10話の合宿回はまさに社会的な活動そのものだ。

合宿はメンバー一人一人の力を底上げすると言う目的(主体性)の為に、お互いサボらないように監視し合う(社会性)と言う意味合いがかなりある。これは「自分の主体性の為に他者を利用し、他者の主体性の為に自分も動く」と言う事であり、2話で示した社会性の存在意義と合致する。そして虹ヶ咲ではここから更に一歩踏み込む。

通常合宿は海か山に行くのがお約束なのだが虹ヶ咲では普通に学校で行うのだ。これは彼女達の目的意識がかなりはっきりしているからに他ならない。なぜなら彼女達の所属するスクールアイドル同好会と言う組織は必要性に応じて集まっているに過ぎないからだ。それは彼女達が組織としての目標であったラブライブを一度放棄していると言うのが非常に大きい。ラブライブと言う組織としての目標は彼女達一人一人の為にならなかったのだ。だから一度解散した。しかしラブライブを目指さなくとも同好会は必要だったから再結成したに過ぎないと言う訳だ。この組織が組織の為ではなく個人個人の必要性の為に存在している事は明白だ。

そう考えるとこの合宿が歪である理由が納得できる。誰も組織の為に何かをしないのでお約束を守る必要がない。「全体の技術向上」と言う目的だけ達成できればそれでいいのだ。故に場所には拘らない。結果として最も合理的な学校になる訳だ。

ここに虹ヶ咲の描く社会性とは何か?と言う問いが現れている。

虹ヶ咲の描く社会性はどこまでも主体性を尊重する為にあるのだ。これが虹ヶ咲の描く社会性と言う訳だ。これこそが1話の「止めちゃいけない、我慢しちゃいけない」と言うセリフの本当の意味だったと言う事です。

 

 

以上虹ヶ咲の描く主体性と社会性について各話を具体的にみて来ました。

前回の記事で何が言いたかったのかの補足になればと思っています。

 

今回の記事は以上になります。

続きはまた次回。

 

虹ヶ咲の描く主体性と社会性のジレンマ

まず初めに前回の記事で書いた内容が一部間違いであった事を謝罪したい。

前回の記事↓

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について - ぴんぷくの限界オタク日記

作品全体がなにを示そうとしているのかに関する事に訂正はないのだが、8話がテーマに矛盾していると言う考え方が間違っていたなと今は思っています。

 

虹ヶ咲は「自分がどうしたいかを考えて、頑張る過程を大事にしよう」そして「自分の弱さを受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」と言うテーマで描かれています。

何をしたいのか→何を受け入れるか→どうするのか。

と言う構成になっており、そうあるべきだと言う事を前回の記事で書きました。

そして8話はどこが問題だったのかと言うと、この「何を受け入れるか」を無効にしてしまった事が問題であると主張した訳なのだが。最終的に12話全て見た結果もう少し踏み込んだ虹ヶ咲の着地点と言う答えを得られたので、虹ヶ咲が描こうとしていた着地点と前回の記事の内容は正しくなかった事の説明を今回は書こうと思っています。

 

その為にまず我々が所属する「社会」と言う組織の構造について話さなければなりません。

 

・社会と自然界

人間は自然界に生息する動物と違い社会的な契約を持つ生き物だ。自然界の動物達には「できない事」こそ存在すれど、「してはいけない事」など存在しません。あるのは全て「自分の為」のみです。一方人間は「してはいけない事」が存在する。なぜなら我々人間は合理的に物事を考えて「社会の為」に行動できる賢い生き物だからです。だから自然界では暴力と逃げ足の速さでほぼ全ての問題を解決できます。お腹が空いたら他者を殺して食べればいいし、都合の悪い事からはしっぽを巻いて逃げればいい。逆に人間社会では力で解決できる事なんてほとんどありません。食べ物が欲しければ相応の対価を払わなくてはならないし、都合が悪くても逃げずに責任を取らなければならない事は山ほどあります。これは人間が動物の様な自然的な生き物ではなく社会的な生き物であるからに他なりません。

 

では我々人間が社会的な生き物であるとして、全く自然的な側面は持っていない生き物なのかと言うと当然そうではありません。そもそも社会契約を守りたくて守っている人などいないでしょう。本当は対価など払わずに欲しい物は手に入れたいし、責任問題だって逃げていいなら逃げるはずです。人間も元々は自然界の動物の一種に過ぎなのです。皆が「社会の為」に行動するのは例外なく社会の為ではない、総合的に見た上での「自分の為」の行動だと言う事になります。つまり人間は社会的な側面と自然的な側面の両方を合わせ持っており、この二つのバランスを取りながら生きている訳です。

 

この社会的な側面と自然的な側面のバランス関係は以下の様な表で表す事ができる。

 

 

f:id:peapoo-pnpk:20210106190206p:plain社会的な側面は「社会性」、自然的な側面は「主体性」と言う軸上でお互い正反対なっており、主体性を重視すればするほど社会性を軽視せざる得ないと言う関係になっています。「社会性」に関してはそのままの言葉を使っているので説明は不要でしょう。

自然的な側面がなぜ「主体性」になるのかと言うと、主体性とは「やりたい事をやる」と「やりたくない事をやらない」の程度の話でマクロに見るとどちらかでしかない、そして逆に位置する「やりたくなくてもやる」や「やりたくてもやらない」はどちらも社会的な行動に当たります。つまり自然的な行動は主体性と言い換える事が可能であり全く同じことを言っています。

 

わざわざ言い換えた理由は単純に我々が人間だからです。自然的と言うとかなり広義な意味まで持ってしまい、動物の本能的な行動と同じニュアンスで理解する事は危険でしょう。

 

さて、この「主体性」と「社会性」対立を我々は日常的に体感しているはずです。まだ少しイメージがしにくいのでもう1段階わかりやすくしましょう。

 

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要するに「主体性」と「社会性」とは本音と建前のことです。

「お腹が空いたから食料が欲しい」が本音で

「食料の為に対価を支払う」が建前になります。

やりたい事とやらなければいけない事の関係とはこういう事であり「主体性」と「社会性」も同じ様に理解していいと思います。

 

社会性や主体性を数値で言われてもあまりピンとこないのでイメージしやすいように具体的な言葉を与えると以下の様になる。

 

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主体性で何か新しい事始めようとすれば(挑戦)、なんらかの社会的なコスト(我慢)を支払う事になるのは当然の事で、それが「理想」や「夢」の様に大きなものを求めるほど何かを諦めなくてならかったりします(断念)。そこにつきまとう社会的な要求も大きくなると言う事です。

 

これは数値の程度がどれくらいなのかを明確にする為に例として与えた言葉に過ぎないので数値に振った言葉をあまり言葉通りの意味だけで考え欲しい訳ではありません。例えば何か欲しい物を得る為に本当は払いたくはないお金を支払う事はここで言う-1~1範囲の出来事なのだがお金を払う事が「我慢」なのはまだしも買いたい物がある事を「挑戦」と言うのはそれほど適当ではないでしょう。あくまでただの目安だと思って欲しいです。

 

それでは実際に世の中の現実的な落とし所について見て行きます。

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基本的に世の中は絶対値1の範囲内が妥当な落とし所であり、ほぼ全ての行動や社会的契約はこの範囲で行われていると思います。 

 

しかし稀に絶対値2の範囲に到達する事も普通にあり得るでしょう。

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絶対値2の範囲は一筋縄ではいかない、かなりの覚悟と代償が付きまとう事になる。

現実問題として絶対値2は相対的に見て社会性が逸脱している事が多く、あまり歓迎されないと言ってしまっていいと思います。よほどの事がない限り避けたいのがこの絶対値2です。当然絶対値3の範囲はもっと稀だしもっと歓迎されないでしょう。

 

・虹ヶ咲の着地点

主体性と社会性のバランスの話をここまでしてようやく虹ヶ咲の話をしましょう。

虹ヶ咲と言う物語の出発点は「大きな理想の為に大きな犠牲を支払う事の否定」からでした。

同好会はラブライブを目指す為にあった訳ですが、メンバーの意見がバラバラであると言う状況を踏まえてラブライブと言う大きな理想の為に無理をして足を揃える。と言う事を彼女達はしませんでした。そして同好会を解散すると言う選択を取ります。これは紛れもなく絶対値2が落とし所として逸脱であることを示していると言えます。これを仮に「主体性」方向からの否定と呼びましょう。

 

そしてもう一つ、笑顔にしたかったみんなの為に自分がスクールアイドルを諦める。と言う選択も逸脱であると示しています。これは絶対値2を「社会性」方向からも否定していると言えるでしょう。

 

こう見ると虹ヶ咲は一貫してこの絶対値2を超えないように作られています。

大きな理想を掲げて無理をするのはあまり現実的ではないと主張している訳です。

 

・ソリューション、絶対値1.5

それでは虹ヶ咲はどの範囲を目指しているのかに注目してみましょう。

彼女達は同好会を解散した事によってラブライブから解放され、それぞれの主体性は担保できました。これは絶対値1の範囲のよくある現実的な落とし所として理解できます。

しかし虹ヶ咲はそこからもう半歩だけ先に進みます。

なんとラブライブを目指さずに同好会を再結成する。と言う中途半端な選択を肯定します。

 

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絶対値1から逸脱しながらも絶対値2までは逸脱しないと言う新たな選択、絶対値1.5。

そしてこの後の話はこの絶対値1.5を目指す話が続いていく事になります。

虹ヶ咲はこの絶対値1.5の範囲をソリューションとして提示している訳です。

 

これは大変偉大なことであると私は思います。

なぜならこの絶対値1.5は通常ならばそもそも存在しない選択肢だからです。あり得ない選択肢を無理やり作って選んでいるところが物凄く偉大な訳です。

 

・8話の再認識

この視点で見ると俺が前回の記事で8話を問題視していた事が間違いだったと理解できます。

当初は8話だけが強さに物を言わせた答えを出していたように思っていました。それはシズクは自分をさらけ出す事ができないと言うコンプレックスを単に乗り越えた様に見えたからです。しかしシズクの問題はそこではありませんでした。シズクにとって問題だったのは「自分をさらけ出せない事」ではなく「主体性を持って演劇をやっていない事」だったのです。

そしてこう見ると8話でシズクの出した結論は実は物凄く中途半端で、ちゃんと絶対値1.5に着地している事がわかります。

 

では8話の内容をおさらいしながら見て行きます。

8話が掲げていた問題はシズクには自分を表現できる様な主体性がなく、社会性の仮面を被った存在である事です。そもそもシズクが演劇をやっている理由は社会性の仮面を被った自分を肯定する為です。主体性がないからこそ他人の仮面を纏えます。何故ならシズクにとってはもはや外面の自分すらも他人の仮面を纏っているのと変わらなからです。

しかしこの回での演目は「自分をさらけ出す」と言う表現が必須であり、主体性のないシズクにはそもそもさらけ出す様な自分が存在しません。確かにこれは問題です。シズクはこの演目にはあまりふさわしいとは言えないでしょう。そこでこれを理由にシズクはこの演目から主役を下ろされる事になった訳です。

 

この問題を解決する最も理想的な方法はシズクのやりたい事が演劇である事です。そもそもこの演目に求められているのは、明らかにそういう人材でしょう。

しかし残念ながらシズクにとってそれは酷な話です。いくらそうあるべきだとしてもシズクには無理難題。なぜならそこは理想と言う絶対値2の範囲であり明らかに逸脱しているからに他ならなりません。

結局現実的な落とし所は絶対値1である「我慢」です。シズクの演劇のスタイルではこの演目は難しいと受け入れて主役から降りて別の演目に励む事が妥当な落とし所でしょう。

 

しかしシズクの選択そこから半歩だけ先に進みます。

主体性で演劇をやると言う理想は諦めて、それ以外の自分の主体性がどこにあるのかを見つけると言う選択を取ります。

結果としてシズクはスクールアイドルだけは自分の主体性でやっている事だと自信をもって言えるようになり、この思いを使って「自分をさらけ出す」を表現できるようになります。これは着地点としてはとても中途半端だ、紛れもなく絶対値1.5の範囲に着地した結果だと言えます。

つまり前回の記事でテーマに一貫性がないと問題視していた事は全く持って間違いであったことがわかります。(すいませんでした。)

 

最後にこの出来事が見事に演目の中で描かれていた事を示して終わろうと思います。

演目ではなんとシズクの中にある「社会性のシズク」と「主体性のシズク」が登場します。

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黒の仮面を被っている方が「社会性のシズク」であり、こちらのシズクは理想よりも現実を重視します。

一方白いシズクは仮面を被っていません。これは「主体性のシズク」である事を示しており、こちらのシズクは現実よりも理想を重視します。

 

「社会性のシズク」はシズクが演劇に主体性を持たない現実を鑑みて絶対値1で妥協する事を推奨します。対して「主体性のシズク」は「なら演劇に主体性を持てばいいじゃないか」と言う理想的な絶対値2での解決方法を推奨します。

 

シズクはこれらに対して「両方の中間を取る事」という選択をとります。

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この2つの極端主張を混ぜてしまうと言う方法を取り絶対値1.5を肯定した回となっていた訳です。

こうしてみると実はかなり良くできた回だったと納得できます。

いやー浅かった、訂正と謝罪を申し上げたい。

 

次記事↓

虹ヶ咲の描く主体性と社会性の補足① - ぴんぷくの限界オタク日記

 

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について

前回の記事では虹ヶ咲が描くミュージカルの素晴らしさについて紹介しました。

今回の記事では表現方法ではなく、虹ヶ咲の内容も大変素晴らしいと言う事を紹介したいと思っています。

  

ラブライブシリーズが描いてきた事

ラブライブシリーズは部活としてのアイドル活動と言う共通の題材でそれぞれ異なるテーマを描いている訳ですが、このテーマはシリーズ毎にどのように移り変わって行くのでしょうか?

実はラブライブにはシリーズとしての共通のテーマが存在します。

 

そして時代はこのテーマに問いかけます。作品は常に移り行く時代に「本当か?」と問われている。。そしてその時代から問われるさまざまな疑問への解答をしっかりと次作で描かれていると感じています。

 

では共通テーマとはなんなのでしょうか?

それは

「何かの為に頑張る事、これって素敵なことだよね」

割とありきたりで漠然としたテーマに見えますがライブライブシリーズの制作はこの事をありきたりな帰結ではなく、真理をかなりちゃんと描こうとしています。

 

 

1つ目の作品では廃校を阻止するため立ち上がり、見事学校を守りました。

そして手段に過ぎなかった仲間たちとのスクールアイドル活動はかけがえのないものとなって残ります。(その後の卒業と言う終わりでもって解散する彼女達の選択。と言う2-映画でのあれこれは長くなるので今回言及しません)

 

この作品で描いたのは

「諦めない。やればできる。頑張ればきっと叶う。」

不可能に思える事でもやらなければわからない。そしてやってやれない事などない。

諦めずに頑張る事が大事だと、そしてその経験はきっと人生の宝物になるはずだと、

だから諦めずに頑張ろうぜ。と言う事を描いた作品でした。

頑張る事は一石二鳥。だからとても素敵な事なんですね。

 

そして2つ目のサンシャインでは

伝説となった前作の出来事を見習い、同じように廃校を阻止するためスクールアイドルとして立ち上がり、生徒達が頑張ります。しかしなんとこの作品では廃校の阻止に失敗します。

伝説は伝説でしかなく、彼女達がどんなに最善を尽くしても現実は残酷なのです。

 

しかしこの作品の本番はここからです。

「では彼女たちの行いに意味はなかったのか?」

 

これこそが時代からの問いだった様に思います。

1作目では「きっと叶う!」などと言っている訳ですが

「じゃあ叶わなかったらどうすればいいのか。」

 

これはかなり正しい問いだと思います。

叶わないなら叶う可能性にかけて頑張る事など無意味でしょう。

しかもそういう感情が付きまとう限りは常に叶わなかった時の恐怖と戦わなくてはなりません。もしかしたら意味がないことをしているのではないか?そう思うと頑張りたくてもがんばれないのではないか?

なんともあの時代らしく最もな問いだったように思います。

 

そしてこれに対する回答はサンシャインで見事に描かれました。

目的の為に頑張ったが結果は伴わなかっが、彼女たちの中には「目的の為に精一杯頑張った」と言う事実が残りました。

そして最終的には廃校の弔いとしてその活動と軌跡が語り継がれることとなります。

結果が伴わなくともその過程には大きな価値があった事を描いた訳です。

 

「頑張ることは無駄なんかじゃない、結果よりも大事な事がある。」

だからやっぱり頑張る事は素敵な事なのだと言う解答でもって示されました。

 

 

・虹ヶ咲のテーマ

3作目の虹ヶ咲は前2作に比べると明らかに異質です。

と言うのも今作は廃校を阻止する為と言うような最終目標が存在しません。

彼女たちがスクールアイドルをやらなければならない理由はもはやありません。

しかもこの事実に関して制作側はかなり真摯に受け止めている様子が伺えます。

なぜなら虹ヶ咲のキャラクターは全員

「なんの為にスクールアイドルをやるかの?本当に自分の為になる事は何か?」

と言う葛藤を持っている。

アユム、エマは憧れ

カスミン、セツナ、カナタは道徳

アイは主体

シズク、リナリー、カリンはコンプレックス

と言った具合です。

 

彼女達には共通の目標がないが故にそれぞれがスクールアイドルである事に意味を見出さなければなりません。それに際して目標もそれぞれ違ってきます。目標がバラバラという事は彼女たちの関係性は前2作と比べると非常に脆いと言う事でもあります。

 

そして更にやばいのが、この事実はしっかりと彼女達に降りかかります。結果としてこの同好会はメンバー間の目標の違いによってあっさり解散してしまう所から物語は始まります。前作2つから考えれば信じられない自体です。こういう所をちゃんと描く所も本当に隙がありません。

 

今作のテーマはここにあります。

前作で描かれた

「頑張ることは無駄なんかじゃない、結果よりも大事な事がある。」

と言う解答に対する新たな時代から問いは

「では辛い事も嫌な事も、無理をして、我慢をして頑張らなければいけないのか?」です。

 

これもかなり正しい問いだと思います。

「頑張る事は素敵な事だ。」「諦めちゃダメ。」「頑張る事は無駄じゃない。」

これらが正しいとするのならば、その過程で起きる全てを頑張らなければいけないのでしょうか?

当然の疑問だと思います。何故ならこれを是としてしまうとサンシャインで描かれた「過程の重要性」は下半分が無効になってしまいます。

過程で失った物がかけがえのない物であったり、ただただ過酷なだけの事であった場合、その先の結果すらダメだったら一体なにを持って過程の重要性を示せると言うのでしょうか?

そしてここが揺らいでしまうと根幹である「頑張る事は素敵な事だ。」はかなり部分的にしか説得力を持ちません。

 

だから虹ヶ咲はこうした疑問に対する解答を描こうとしている訳です。

 

そこで彼女たちは目的が合わない事実を受け入れます。そして目的の共有が出来ていない事が理由で解散したにも関わらず、目的を共有しないまま同好会の再結成に到達します。

 

ここから虹ヶ咲で描く時代からの問いへの解答が見えて来きます。

「頑張る上でなんでもかんでも我慢する必要はない、自分がどうしたいかを大事にしよう。」

こういう事を示そうとしているのではないでしょうか?

「自分の弱さを受け入れて、現実を受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」

そういうテーマです。

 

これによって「頑張る過程」は目的の為のみであってはいけない事が示せます。

できない事、やりたくない事。これらをやる事が直接的に目的達成に繋がるとしても、それを無理に頑張る必要はないと言う事を肯定している事になります。そしてそれらを受け入れた上で「頑張り方を考える」物語を描いています。これで解答としようとしている訳です。

 

これによって「過程の重要性」は下半分に対しても、やり方次第で有効である事がわかります。

これで「頑張る事は素敵な事だ。」の説得力が担保されると言う訳です。

 

だから虹ヶ咲のキャラクターは徹底して「乗り越えず」に「受け入れる」のです。そして「その上でどう頑張るか」を考えるのです。

 

だからセツナはアイドルを続ける為に(その上でどう頑張るか)ラブライブは諦める(乗り越えずに受け入れる)

それがたとえタイトルのラブライブですら、乗り越えないものとして切り捨てるほどの覚悟を持って示してきている点を私は非常に高く評価しています。

 

中でも6話が優れています。

リナリーは表情を豊かに作れないコンプレックスを克服せずに(乗り越えずに受け入れて)ボードで代替して表現します。(その上でどう頑張るか)

この回の素晴らしさは見て貰えれば納得できると思います。

 そしてこの物語の1話では「止めちゃいけない、我慢しちゃいけない」と言うセリフが大きな意味を持って始まります。

 

テーマはやはり

「頑張る上でなんでもかんでも我慢する必要なんてない、自分がどうしたいかを大事にしよう」

であり

「弱さを受け入れて、現実を受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」

という事がわかります。

 

しかし例外的に8話はこれが適用されておらず少し心配している事も話して置かなればなりません。

 

8話の問題点

それでは最後に何故8話の「しずくモノクローム」が問題なのかについて触れて終わります

 

シズクは自分をさらけ出す事を怖がるがあまり自分の人生を演技的にする事で解決とした。だから「自分の色」を持っていないが故のしずくモノクロームです。

そしてこれはリナリーと同様にシズクにとってコンプレックスとなっています。

しかしシズクはこの事をカスミンに「甘い事言ってんじゃねーぞ」と指摘されます。このシーンは突然の解釈違いで結構ビックリしました。そしてシズクはこれを受けてコンプレックスそのものを自力で乗り越えてしまいました。そんな簡単に乗り越えられるならこんなに世話のない話はありません。

これはリナリーの例で言えば表情を変えられない事を受け入れずに、頑張って表情を変えられるようになって乗り越える。と言う選択を取った事と変わりません。

「乗り越えずに受け入れて、その上で頑張る」とは言い換えると「何かを頑張らずに別の何かで代わりに頑張る」と言う事です。

 なんの犠牲もなく力で解決できるならリナリーの話はなんだったんでしょうか?

これではあまりにもリナリーが浮かばれない。

 

百歩譲ってシズクが自分をさらけ出す事が怖くて受け入れられずに演技的な人生を歩んで来たが、ついに自分をさらけ出す事を受け入れて、演技的ではない本当の自分で勝負する事に決めたのだとしたらギリギリ納得はできます。

しかしシズクが演技的な人生を歩んで来た事や演劇をやっている事自体も否定してしまう事になる為個人的にはあまり気が進まない解釈です。

やはり演技的な性格である所まで受け入れて欲しかったなと言う願望があります。

 

 

まぁそうはいってもまだ物語は途中です。

この辺に対する進展があっても全然おかしくはないので温かい目で見守って行こうと思っています。

 

現状虹ヶ咲に対する評価が非常に高いです。

それこそ人生史上でも上の方に残る勢いで。

だからこそちゃんとして欲しいと願っている訳で必要以上に期待しています。

 

まぁ結局最終的に何を言いたかったのかよくわからない感じなってしまいましたが、とにかく自分が虹ヶ咲を評価しているのはミュージカル文脈だけではないと言う事が伝わればそれでいいです。

 

次記事↓

虹ヶ咲の描く主体性と社会性、前回の記事の謝罪 - ぴんぷくの限界オタク日記

 

虹ヶ咲とミュージカルと固有結界の話

皆さんは「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」(以下虹ヶ咲)と言う作品をもう見ただろうか?私は今までゲッサンのミリオンの素晴らしい点について紹介してきた訳だが、関連する話題として虹ヶ咲と言うとんでもない作品が出て来てしまったので今回は虹ヶ咲がなぜ素晴らしいのかについての紹介をしようと思います。

 

・この世界の支配者

私の思う最強の作品形態はミュージカルです。

ゲッサンミリオンとの関連事項は主にミュージカルと言う点にあります。この話は前に少しだけ触れた事があるのだが深くは言及しませんでした。 なので今回はミュージカルがなぜ最強なのかをちゃんと説明しようと思います。

ミュージカルがなぜ素晴らしいのかを説明する前にこの世界の支配者の話をしなければなりません。

この世界は言語によって支配されています。 コミュニケーションをとる時は当然言語を使うし、物事を考える時は脳内で無意識に言語を使って問答しているはずです。 しかしそもそも言語とは人間が作りだしたツールであり生物が元来持っている機能ではありません。 つまり元々は物事を考える事は言語を使わなくてもできるはずです。 実際人間以外の動物はそうやって思考しているはずです。

それなのに我々は言語として物質化した思考物しか物事として認識していません。

これは我々人間の認識が言語に支配されているからに他ならない。 故に人は言語として存在しない思考系はそもそも認識する事すらできません。 例えていうなら、仮に「好き」と言う言葉は存在するが「嫌い」と言う言葉が存在しなかったとしたら、我々は「嫌い」と言う思考物を「好きではないよくわからない感情」としてしか認識する事ができません。 数学が最もわかりやすい例です。縦10cm横10cmの正方形の面積は100cm^2であるがこれこそ言語化の英知です。 「縦横」と言う概念を言語化することで向きや形が理解できます。

そしてその大きさを「数値」によって言語化することで比較ができます。 そして面積の求め方と言う「知識」によって言語化する事で完全に支配し扱う事ができると言う訳です。 だから我々はありとあらゆるもの言語化しようとします。そうする事で我々は扱える物事は多くなりその分だけ賢くなるからです。

 

言語化不可能領域の神聖性

ではこの世の全ては言語化可能であると言えるのでしょうか? 答えは当然ノーです。 我々は味覚や聴覚情報を言語で正確に伝達する事は出来ないし、怒りや疲れの度合いを数値化する事もできません。故に言語と言う名のこの世の支配者は万能ではない事も理解しなくてはならなりません。

だからこそ完全に言語化が不可能な領域は曖昧であり神聖なのです。 それは言語によって支配できない領域でありイメージする事しかできないからです。

それでは話をミュージカルに戻します。 アニメや漫画等の作品は物語が進行して行く上でのキャラクターの気持ちの変化や想いをなんとかして言語によってどうにか伝わる工夫がなされています。 しかし言語などでは到底表現できない様な感情は当然存在します。近年ではそれらをイメージできる様にする為に様々な非言語表現が用いられています。 それは広い海に浮かんでいる様な風景であったり、川の流れる様な音であったりする訳です。

勘違いして欲しくないのは言葉以外の全てが非言語表現と言う訳でもない、例えば「檻に閉じ込められた自分」みたいな描写はそれを言語に変換した所で印象にそれ程違いはありません。

言語に変換した物と比較して、言語より優れている印象が与えられる事で初めて非言語的な表現となります。

逆に言えば非言語表現には言語を使う事もできると言う事です。例えば「重い」と言う字が石になってキャラクターにのしかかり倒れている様な描写は言語を内包した非言語的な表現と言えます。

 

・歌の価値

とりわけ俺が優れていると思う非言語表現は「歌」です。歌は言語を音に乗せた強化系です。地盤が言語であるが故にその力は強大だが支配力が強すぎて誤認識を起こしてしまいそうになる点は厄介です。しかしそう危惧するほどの支配力は意外にありません。「歌」が人に与える印象を思い出してほしい。 初見の「歌」を言語のそれとして認識し脳に留めるでしょうか?そうではないはずです。 実際はメロディが先に記憶に残るし、覚えている言語など精々サビの歌詞くらいでしょう。 最終的に残るその「歌」のイメージは結構曖昧でありかなり神聖の領域に近い物であるはずです。 (まぁそうは言ってもかなり支配力は強いので扱いには要注意である事は自明ですが。)

つまり「歌」は言語にすら支配されつくされない強力な力を持っており、尚且つ地盤は認識の支配者である言語なのです。言語化不可能な領域の表現にここまで近づく事ができる方法はこの世に存在しないと俺は思っています。

ここまで説明すればミュージカルがいかに優れている作品形態かが見えて来ます。 キャラクターの心情の解像度は非ミュージカル作品の比ではありません。言葉で説明されるより何倍も心に刺さります。 (かといって安直にミュージカルが一強かと言うとそうではありません。歌の質もピンからキリまである為それら全てが他の表現方法全てを超えているはずもないので。なんなら例を探せばすぐさま見つかるレベルだと思いますし、だからこそ私は雑な作りをしている(と思っている)ミュージカル的な表現にはあまり関心を示さない所があります。)

 

現代ミュージカルの代表作であるアナ雪がいい例です。エルサは完全に一人になった事で真の自由を手に入れました。しかしその自由の背景にはもう帰る事はできない悲しみや罪の意識があります。その神聖なる想いは単なる言葉のみでは真に理解する事は難しいです。しかしレリゴーによって真に神聖な領域を体感する事ができます。

レリゴーにはそれを表現できるだけの力があったからこその流行だったし、あそこまで人の心を掴んだのだと思います。

参考:松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」

https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM

 

・アニメとミュージカル

もう一つのミュージカルの特徴は物語との不自然な独立です。

制作者と視聴者とのお約束によって物語の整合性と独立させてしまう事で成立する大変豪の深い表現方法です。 これによってそのお約束タイムの間だけ心情表現の世界に引き込まれる、そしてその神聖な世界を体感する事になります。

(補足:この製作者と視聴者とのお約束と言うのは作品内部の設定的なお約束の事ではなく、作品外部のメタ的なお約束の事である点は勘違いしてはいけません。例えば、かのかりで和也と水原が事ある毎に鉢合わせてしまうのは設定的なお約束です。対してプリキュアが変身している時間を敵キャラが呑気に待っていたりするのはメタ的なお約束です。)

 

俺はこの典型的なミュージカル表現である物語の整合性と独立していると言う所まで含めてかなり好きだ、お約束タイムに入る流れが不自然であればある程評価が上がるくらいには気に入っている表現です。

整合性との独立はそのまま表現の自由度に繋がります。

普通に考えれば如何に歌が非言語表現として優れていたとしても、キャラクターが突然歌いだしたら倫理的に見てもやばい奴だし物語の整合性が取れなくなるのは当然です。ここを自然な形に落とし込もうとするならば作品形態をアイドル物にする事で歌う事自体を自然な物にするしかありません。だから物語の形態に依存せずに歌の力を使おうとするならもういっその事整合性と独立させてしまった方がいいと私は思っています。

 

しかし残念な事に世間的にはこういう整合性からの独立はあまり評判がよくないのか、近年のアニメではミュージカルまで割り切った表現は珍しい、最近だとSIROBAKOの映画で宮森がカレーを食べた後のシーンなんかはミュージカル的だと思ったくらいで他は特に記憶に新しくありません。

不自然さと言う点をかなりライトに落とし込んでアイドルものにしてしまう事が多い。けいおんから始まり、アイマスアイカツくらい整合性の取れた世界観に落ち着いているし、あってもプリパラやキンプリくらいで、これくらいの不自然さですらかなり挑戦的だと言われている程度です。

特に印象的なのはレヴュースタァライトの舞台版とアニメ版の違いです。舞台版ではキャラクターの自己紹介がミュージカルになっており話の整合性無視の完全なるメタ的なお約束タイムが存在していて大変すばらしいのですが、アニメ版ではこれがなくなりアニメ内での舞台においてしかミュージカルが存在せず、これはどちらかと言うと設定的なものとして扱われています。アニメにするにあたって話の整合性重視に切り替わっているのが見て取れます。アニメのやり方はあくまでもミュージカル的にはなり得ない事が示された例です。

「ミュージカルとアニメは別物であり畑が違う」と言うのが現代アニメの着地点の様です。

個人的にはアニメももっと不自然でいいしミュージカルして欲しいなと思っています。

 

 ・虹ヶ咲とミュージカル 

さて、現代アニメの着地点とミュージカルがいかに優れているのかを示した所でようやく虹ヶ咲の話をしましょう。 虹ヶ咲ではまさにミュージカルそのものと言った表現が採用されています。

 

不自然さがかなり際立っており、ここまでミュージカル的な表現をしたアニメはかなり珍しいです。

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ここで注目したいのはこのお約束タイム中の「歌」がこの世全てのミュージカル的表現を葬送するかの如く、新たなる時代を切り開こうとするかの如く先導性があった所です。 なんと歌に「固有結界」が追加されています。

整合性との独立に合わせて歌の表現自体すらもファンタジックに仕上がっており、歌の世界からすら更に整合性との独立が行われている。その空間の在り方は「固有結界」その物と言えます。

「固有結界」とはFateシリーズの設定であり、「心象風景の具現化」の事である。 個と世界、空想と現実、内と外を入れ替えて現実世界を心の在り方で塗りつぶす最終奥義の事です。

説明を読んでもらえばわかる通りだがミュージカルとの相性が抜群です。 この「固有結界」に相当するものを虹ヶ咲はミュージカルの中に追加してきました。 当然こんな事が許されるのであれば既存のミュージカルよりも更に解像度は高くなります。 これによってもはや「固有結界」を持つミュージカルはそうでないミュージカルの上位互換となってしまったと言わざるを得ません。 故にこの世全てのミュージカル作品の葬送するにたり得ると言う表現は存外言い過ぎではないと思っています。

何より、これはアニメだからできる特権でありアニメでこれをやる事に何よりも価値があります。

 

私はこれを現代ミュージカルのソリューションとして提示したい。 なによりもっとこう言う表現がアニメ界でも増えて欲しいと本気で願っています。

虹ヶ咲には私にとってのミュージカルの未来がかかっていると言っても過言ではない。

そういう意味でも大変期待している。

 

ありがたい事に虹ヶ咲はなんとYouTubeで全話無料公開しているので興味がある方は是非見て欲しいです。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 1話

https://www.b-ch.com/titles/7087/001

 

次記事、ラブライブシリーズが描くテーマについて↓

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について - ぴんぷくの限界オタク日記

 

 

賞賛なんてなくたって

どうもぴんぷくです。

前回の記事「翼の翼」に続くゲッサン3巻の紹介記事の後編になります。

 

前回の記事↓

翼の翼 - ぴんぷくの限界オタク日記

 

後編は前編の比じゃないくらい長いのでそのつもりで読んでください。

字数で言うと3倍くらいあります。

 

・前編のおさらい

 

 

前半は翼の掘り下げがメインでした、後半は物語の主題である「ジュリアにとってアイドルとは?」がメインになります。

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前編でこの物語の主人公はジュリアだと説明しましたが、前編だけ読んでも「本当にジュリアが主人公なのか?」と言われてしまいそうですが安心してください。

ちゃんと後編から主人公します。

 

と言う訳でまずは前回の記事の内容をざっくり振り返っておきます。

 

①性格は正反対

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真っ直ぐでクールな面倒見のいいジュリアと食わせ者でやんちゃで自由な性格の翼とでは真逆の性格です。 

 

②憧れは盲目に

 

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翼にとって美希は「人生のお手本」と言うくらい尊敬しています。

そして尊敬するが余り、美希が絡むと少し周りが見えなくなってしまう1面があると紹介しました。

 

③翼、不調へ

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美希とステージに立てるチャンスを逃して精神が不安定になり、いつもの翼らしさを失ってしまいます。

 

④翼らしさの復活

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ジュリアが合わせる事で翼の「自由」を取り戻させます。

 

⑤ジュリアは何でアイドルやってるの?

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このお話の主題がついに明らかになります、これはジュリアが「自分にとってのアイドルとは何か」を探す物語です。

 

そして前編記事の冒頭でも書いた通りこれは新曲"アイル"誕生の物語。

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それではここから後編です。

 

 

早速前回からの続きを見て行きましょう。

「ジュリアは何故アイドルをやっているのか?」に対する「今のジュリア」の回答から後編の物語は始まります。

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答えは「わからない」です。

一体どうしてわからないのでしょうか?

しかもどうやらなんらかの葛藤がある様子が伺えます。

 

「ジュリアは何故自分がアイドルをやっている理由がわからないのか?」この謎を解く為には「ジュリアの葛藤」がなんなのかを知る必要がありそうです。そしてそのヒントは恐らく「ジュリアの過去」に隠されていると思われます。 

 

それでは次の項目では、「ジュリアの過去」について紐解いていこうと思います。

 

そしてこの「ジュリアの葛藤」こそが今回のお話の主題である「ジュリアにとってアイドルとはなにか?」なのです。

 

 

・ジュリアの「過去」 

ジュリアはもともとバンドのボーカリストでした。

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ではそもそもジュリアはそこからどのようにしてアイドルになったのでしょうか?

これに関してはゲッサンだけではわからなかったので、少し前の記事も紹介した通りゲッサン最大の魅力である「曲の力」を借りてジュリアの過去について考察して行こうと思います。

  

 

 ジュリアの曲は

スタートリップ

流星群

プラリネ

この3つです。

時系列的には「スタートリップ」と「流星群」が今回の物語の時点で既にジュリアが歌っている曲で、「プラリネ」はこの物語が終わった後にジュリアが作った歌だと思われます。

ですので「ジュリアの過去」を見ていく為に「スタートリップ」と「流星群」の歌詞を見て行きましょう。

 

歌詞が前後したり省いたりしますが、説明の都合上いつもこの様にやっていますのでそこの所はご理解ください。

 

それではジュリアにとってのアイドルとしてのスタートライン「スタートリップ」から見るジュリアの過去の考察からです。

スタートリップ

窮屈だと思ったくせに都合良く何度も夢に見る
窮屈だと思った場所があたしを今も守っている
ヒトツヒトツがあたしを作るから あなたと出会った日を忘れない

この「窮屈だと思った場所」とは恐らく「過去にあった辛い期間」でしょう、
その辛い期間があるからこそ今の自分があるんだ。と歌っています。

そしてもう一つポイントがあります。それは「あなたと出会った日を忘れない」の「あなた」とは誰の事なのかと言う点です。

「窮屈だった場所が今も私を守っている」それが「あたしを作る」と歌っています。つまり「過去の辛い記憶」が「今の私を作る」そしてだから「あなたと出会った日を忘れない」と歌っているのでこの「あなた」と言うのは「過去の自分」の事を示している事になります。

この「あなた」=「過去の自分」と言うのは後の「流星群」や「プラリネ」にもつながって来る非常に重要なワードなので覚えておいて欲しいです。

ヒトリきりでもあたしは歌ってた 後ろ指さされる日もあった
見慣れた町の見慣れた帰り道 涙よ落ちないで 

「過去にあった辛い期間」の補足です。「後ろ指さされる日もあった」事が辛い経験の正体の様です。恐らくロックバンドのボーカルをしていた時にバカにされたて泣きそうになりながら歩いた帰り道が忘れられないのだと思われます。

 

「過去にあった辛い期間」=「バカにされた経験」

これも後々かなり重要になって来るので是非覚えておいて欲しいです。

そんな夜を越えて今日も明日もあたしは歌うから 
躓くこともまたあるけれど新しい街 新しいステージで
あたしだけのメロディー探す旅に今出掛けよう
「そんな夜」と言うのは「過去にあった辛い期間」の事ですね。そしてそんな「過去」があるから「今」の自分がある、そして「未来」に向けて旅に出ようと歌っています。この「新しいステージ」の意味は色々と解釈のしようがあるで難しい所です。とにかく環境の変化を求めてステージを変えようとしています。

個人的には「新しいステージ」=「アイドルの道」だと思っています。

これの根拠となるものは後々沢山出て来るので意識してみてください。

 

まとめるとスタートリップは
「辛い事もあったしこれからもあるだろう、それでも歌の道に進む為にいざアイドルの世界へ!」と言うジュリアの過去が非常によく描かれている曲です。

 

この「スタートリップ」と言う名前も「星に乗って旅に出よう」と言う意味だと思います。星はどこへ行くのか軌道がわかりませんよね、これはそんな「行先が見えない旅なんだ」と言う意味が込められているのでしょう。

この「行先が見えない」と言う所からも、藁にもすがる想いでアイドルの世界に飛び込んだ、と言う意味なのではないかと思っています。

 

 

そしてジュリアの2つ目の曲がこちらの「流星群」です。

 

流星群

流星が降る夜にドキドキして歩いた
あたしはヒトリボッチだけど怖くなかった

「スタートリップ」の時に比べて「夜」に対する捉え方が180度変わっています。

「スタートリップ」では「涙した夜の帰り道を乗り越えて」と言う様に「夜」を乗り越えなきゃいけない苦い記憶として歌っていました。

しかし「流星群」では「ドキドキする様な夜」と言う様にポジティブなイメージで歌っています。

しかも「スタートリップ」では「後ろ指刺されながら歌うのは孤独だった」と歌っていたのに対して「流星群」では「ヒトリボッチだけど怖くない」と歌っています。これも考え方が180度変わっていて非常にポジティブになっています。

 

一体なにがあったのでしょうか?

ヒントはこの「流星が降る夜」に隠されているんじゃないかと考えています。

「スタートリップ」とは「星に乗った旅、夢に向かう為の行先のわからない旅」と言う意味でした。つまりここでの「流星」というのは「夢に向かって進む人達」の事を示しているのではないか考えられます。

恐らく地元では後ろ指刺されながら馬鹿にされて来た「音楽の夢」が、ステージを変えてみたら、アイドル達が当たり前に音楽の道を夢見て歩んでいる。そんな世界を見たのではないでしょうか。

こう言う所からもやはり「スタートリップ」での「次のステージ」=「アイドルへの道」と言うのが有力な気がします。

 

暗闇を照らすように光が一筋浮かぶ
ココから未来まで道が出来たみたい
足音が響いてる 思わず走り出した

そして「辛い場所にいた自分にも希望の光が見えた、音楽の夢への道ができた」と歌っています。恐らくずっと馬鹿にされて来た自分の夢と同じような夢を持つアイドル達を見た事で、刺激を受けて暗い感情が一気にポジティブになったと考えられます。

だから「スタートリップ」に比べて「流星群」はこんなにも明るいんですね。

 

「スタートリップ」では「どうなるかはわからないけどとにかく見てみよう」と言う先がわからなくて不安な思いでしたが、実際に見てみた衝撃が余りにも凄かったのでしょう。その後「思わず走り出した」と歌っています。

アイドルへの道は昔のジュリアからしたら当然「同じ音楽の道」と言うだけで、畑の違う道です。そんな道なのにも関わらず、不安な思いでがむしゃらにアイドルの世界に飛び込んでみたら、そこに希望を見てしまった訳です。

アイドルなんて自分らしくない事はわかってるはずです。それでも暗闇の中で初めて見えた希望に向かって思わず走り出してしまった訳ですね。

 

空を彩る星に乗ってあたしは未来へ
願い事をたくさん詰めた鞄を握りしめ
キラキラのステージへ振り返らずに走ってゆこう たとえ遠くたって

「スタートリップ」では星に乗る事は「行先の見えない旅」と言う意味でしたが、「流星群」では「空を彩りながら未来へ向かう旅」と言う様に行先が、「わからない」から「未来」へと変わった事で「願い事をたくさん詰めた鞄を握りしめ、キラキラのステージへ」と旅への考え方がとても明るくなっています。

この「ステージ」と言う単語は「スタートリップ」にも出てきました。

「スタートリップ」では「ステージ」=「アイドルの道」だと説明しました。

ジュリアは恐らくここで「アイドルの道」を迷わずに進む決心をしたのだろう事が伝わってきます。

 

そして「たとえ遠くたって」と歌っています。

自分がアイドルらしくない事をわかっての事でしょう、遠い道のりである事を感じています。それでも「この道しかない」と言う決心を感じます。

 


流れる星のようにだれよりも輝いて
あなたの足元を照らせたらいいな
寂しくないと強がる手をあたしに握らせて

「スタートリップ」でこれは重要だと説明した「あなた」と言うワードが出てきました。これは「あなた」=「過去の自分」と言う使われ方でしたのでそのまま当てはめると、「流れる星の様に誰よりも輝く事で、馬鹿にされて来た過去の自分の救いになりたい、孤独だった自分に寄り添ってあげたい」と歌っています。

ちなみにこの「流れる星のように」というのは先ほど「流星」=「夢に向かって進むアイドル達」と言う解釈をしましたので、「あの日自分の行く道を照らしてくれたアイドル達様に、今度はわたしが過去の自分を照らしたいんだ」と言う想いを感じる事ができます。

そして続いての歌詞

願い事とあなたの手を強く握りしめ
唇から零れ出すコトバを並べたら歌声に変わるの

願い事はもう唱えた?あたしと未来

そんな「過去の自分今の願いを胸に、その想いを言葉にすれば歌になる」と歌っています。ここまで来れば言わなくても明白ですがジュリアは曲に自分を投影して歌にしてるんですよね。

そして「過去の自分今の願いを歌えば未来の私になるよ」となっている訳ですね。

 

「流星群」のストーリーの段階ではまだアイドルの道を行く決心をしただけなので、当然まだステージにも立った事はありません。

それでも未来の自分はこの過去を胸にこの「流星群」と言う曲をステージの上で歌っているんだよ。と言う意味になっている訳ですね。

 

「流星群」という名前の意味ですが、「流星」=「夢に向かって進むアイドル達」と言う解釈ですので「スタートリップ」が行先の分からない星に乗った旅だった事を考えると、「夢に向かって進むアイドル達に、行先がわからなかった自分も同じ軌道と合流して、仲間と同じアイドルの道を進む「群」になるよ」と言う意味だと考えられます。

 

このように「スタートリップ」と「流星群」は時続きになっておりジュリアの過去のストーリーが非常によくわかる様になっています。ここまでがゲッサン3巻のが始まる前までのお話でゲッサン3巻を経て次の「プラリネ」に繋がって行きます。

「プラリネ」の考察についてはまた後で紹介します。

 

・「スタートリップ」「流星群」から見るジュリアの過去まとめ

①後ろ指刺されながら夢を否定されながらも音楽の道を目指す辛い過去

②藁にもすがる想いで行先のわからないアイドルの世界に飛び込んだ

③夢に向かって進むアイドル達から希望をもらう

④そんな希望が見えた世界に思わず走り出した

④今度は過去の自分に希望を与えられる様なアイドルになる事を決心

⑤だからそんな過去の想いと今の願いを歌に乗せて未来の自分が歌うんだ

 

以上が楽曲から見るジュリアの過去に関する考察です。

長くなってしまいましたがここを明確にしておかないとゲッサンの主題である「ジュリアにとってのアイドル」を解釈するのが難しくなってしまうのでがっつりやりました。

 

そんな過去があるジュリアですが、ゲッサンでの「今」はどうなっているでしょうか?

 

・ジュリアの「今」

 

さて、「スタートリップ」でアイドルの世界に飛び込み「流星群」でアイドルになる覚悟を決めた訳ですが、ゲッサンで描かれているジュリアの「今」はどうなっているのか少し振り返ってみましょう。

 

①ステージで歌を歌えているし歌には真剣

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アイドルの中でも異色と言われるほど「歌」に対する想いが強く、その力をステージで発揮しています。

 

 

 

②やってやる意思がある

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一度やると決めたらやる、中途半端を嫌う性格のジュリアらしい回答です。

 

 

 

③でもダンスはまだからきし

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それでも自分に似合わないダンスはやっていないようです、実際これはジュリアにとっては結構大きな問題になってきます。理由は次の③

 

 

 

③だからなりきれてない自覚がある

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中途半端が嫌いな性格のジュリアにとっては、自分がダンスができずアイドルになりきれていないのは自分が中途半端な事をしている自覚があり、それをかなり気にしています。

 

まとめると

「流星群」でアイドルの道を行く決意を固めたジュリアですが、事務所に入り活動を始めてからの現実は、結局得意な「歌」をやるばかりであまりアイドルらしい事はまだできていないのが現状の様です。

 

それでは最初の疑問に戻りましょう。

では何故ジュリアは「流星群」でアイドルの道を行く決意を固めたはずなのに、翼の質問に対して「どうして自分がアイドルをやっているのかわからない」と答えたのでしょうか?

 

この答えこそが物語の主題である「ジュリアにとってのアイドルとは?」の解答であり、ジュリアが足踏みしてしまっている最大の原因です。

 

それでは次の項目では「何故ジュリアは自分がアイドルをやっている理由がわからないのか」の答えを知るべく、主題である「ジュリアにとってアイドルとは?」について考察して行きます。

 

・「ジュリアにとってアイドルとは?」

 まず「ジュリアにとってのアイドルとは?」の解答にたどり着く為にはある2つの疑問を先に解決させなくてはなりません。

①そもそも何故ジュリアの中で「過去の自分」がこんなにも「辛かった記憶」となってしまっているのか?

②そして何故ジュリアはアイドルのステージが希望の光に見えたのか?

そして最後に

③「ジュリアにとってアイドルとは?」です。

 

それでは順番に紐解いて行きましょう

まずは①「過去の記憶が辛いものだった理由」から。

①の答えは全ての始まりである「スタートリップ」の中にあります。

「スタートリップ」の項目で重要だと説明したのはここに繋がってきます。

「スタートリップ」では「辛い期間」の補足として「後ろ指さされながらも歩んできた」と言う風に歌っています。

 

ですので①の過去の記憶が辛いものだった理由の解答は「後ろ指さされてバカにされて来たから」です。

 

続いての②の「アイドルのステージが希望の光に見えた理由」は①の解答からそのまま繋がっています。

過去が辛かったのは「後ろ指さされてバカにされて来たから」それで思わず飛び出した、そしてそんな場所で「後ろ指を刺す人なんていないアイドルのステージ」と言う世界を見てしまった。だから希望を感じた訳です。だから「自分もそんなバカにされない存在になる事が過去の自分の救いになる」と思った訳です。

 

最後に「ジュリアにとってアイドルとは?」

この答えは①②の解答から導き出せます。

答えは「アイドル=馬鹿にされない存在」です。

なぜならジュリアは自身が「後ろ指さされてバカにされない存在」になる事で、「過去の自分」を救おうとしているからです。

どういう事かと言うとジュリアはまた後ろ指さされてバカにされるのが怖いのです。

過去の自分を救う為に「後ろ指さされてバカにされない存在」にならなければならないと言う想いの所為で、自分に似合わない「歌」以外のアイドルらしい事を避けてしまっているのです。なぜならそんな事をしたら今度は似合っていない事をバカにされるかもしれないから。

自身が「過去の自分を救う存在」とならなければいけないと思えば思うほど「馬鹿にされるかもしれない事」に怯えているのです。 その結果得意な「歌」に逃げてしまい、ずっとそこで足踏みしてしまっていると言う訳です。

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まとめると

ジュリアは自分が「アイドルらしいアイドル」になれれば、後ろ指さされてバカにされることのない「過去の自分を救う存在」となれる事はわかっています。しかし自分に似合っていないアイドルの姿は「また後ろ指さされてバカにされるんじゃないか」と怖がっている所為で今のジュリアはそんな「後ろ指さされてバカにされないアイドルらしいアイドル」になれる自信がないのです。

 

かなり話が見えてきました。

そしてここまでくればついに「何故ジュリアは自分がアイドルをやっている理由がわからないのか?」と言う疑問の答えが明らかになります。

ジュリアは「アイドルらしいアイドル」になる為にアイドルの世界に入ったのにも関わらず、「アイドルらしいアイドル」になれる自信が持てない所為で「歌」に逃げてしまっています。しかしこのままではいつまで経っても「過去の自分を救う存在」にはなれません。

だからジュリアは、なんの為にアイドルの世界に入ったのかがわからなくなってしまっていると言う訳です。

そしてこれが 「ジュリアの葛藤」なのです。

 

 

 これこそが「ジュリアの葛藤」の正体である事がわかりました。

では「ジュリアにとってのアイドル」は本当にこのままでいいのでしょうか?

もちろんそんなはずはありません。

 

だからこそ今回の物語の主題は「ジュリアにとってのアイドルとは?」なのです。

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・ジュリアを救うには ?

さて、ジュリアの過去とその想いがわかった事でようやく今回のお話はこの「ジュリアにとってアイドルとは?」と言う問題と「ジュリア葛藤」を解決へと導く為のお話。と言う事の根拠を示すことができました。

 

ではどうすればこの問題は解決するのでしょうか?

方法はいくつかあると思います。

なのでまず前提だけ確認しましょう。

 

前提①ジュリアはこの葛藤を乗り越える

これを前提にしないとこの物語がなんの為の話だったのかわからなくなりますし、ジュリアを救うにはどうすればいいかを考える意味もなくなってしまうのでこれは前提にしましょう。

 

前提②どうあってもアイドルの道は進む

「流星群」でアイドルの道を進む事の決意は終わっていますし、やると決めたからにはダンスもやると言っていたので、ジュリアはその「勇気」がないだけで「覚悟」は本気なのです。

 

前提③「過去の自分」は切り捨てない

あまりいい言い方ではありませんが、ジュリアにとって「過去の自分」は今の自分を追い詰める「呪い」になっているのは事実です。だからいっそのこと切り捨ててしまうのは一つの手かもしれません。しかし曲の中で「「過去の自分」が「今の自分」を形作っている」と歌っているのもまた事実なので、過去を完全に切り捨てることはありません。

 

これらを前提とするならば もう解決の答えは出たようなものです。

ジュリアを救うには

ジュリアは「過去の自分」は背負ったままで、アイドルの道を進む「勇気」があればいいのです。

 

 

 では誰がどうやってこの事をジュリアにこのきっかけを作ってあげられるのか?

ここまでの私の記事を全て読んでいる方ならもう気づいているのではないでしょうか?

 

前編では「ジュリアが翼に」翼らしさを取り戻すきっかけを作りました。

と言う事は、後編は今度は「翼がジュリアに」解決のきっかけを与える番と言う訳です。

もうゲッサンではお決まりのパターンですね。

毎回違う方向からこれをやってくるの本当描き方が上手いなーと思います。

 

 

 

・「くだらない夢」

さぁここからが本番です。

それでは話を本編に戻しましょう。

 

「正直まだアイドルになりきれてないんだ」と答えたジュリア、そして「やっぱりアイドルなんて自分には柄じゃない」と言うジュリアに対して翼は…

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「ジュリアはアイドルでもいつものジュリアだよ」と答えます。

はい、いきなり100点満点です。

なんと翼はアイドルの姿の自分に自信が持てず、馬鹿にされる事に怯えているジュリアに対して「アイドルでもジュリアはジュリアとして輝ける」、「ジュリアはアイドルの姿でも変わらずジュリアだよ」と言うジュリアがアイドルの道を進む事を勇気づける完璧な解答をご用意してしまいました。

 

 

しかしまだこの言葉はジュリアの心には届きません。

なぜならジュリアは自分がアイドルの姿でも、いつもと変わらない自分であるとは思ってないからです。

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それでも少し心は晴れたような表情を見せます。

少しだけ勇気を貰ったのでしょう。

あと一歩欲しい所です。

 

そして次のシーン

翼は美希のオーディションの事を思い出します。

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それに対してジュリアは

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美希に拘る翼に対して「自分のなりたい自分であれ」「だから翼は翼らしくあればいい、だって美希にはなれないんだから」と言います。

 

 

ところが翼の反応は・・・

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えーーーーわかってたのーー!?

 

そうです、翼は最初から「美希」を目指していた訳ではなく「理想の自分」を目指していたのです。翼は美希を「人生のお手本」と言うほど尊敬して美希の真似をしてはいますが、そもそも翼は「美希と言う人物」に憧れた訳ではないのです。

 

翼にはもともと「理想の自分」を描いていて、それがたまたま美希と当てはまったから「人生のお手本」としているだけなのです。だから翼にとってはもしこれが別の人に当てはまっていたら、極端な話ですがそれが美希である必要すらないのです。

 

そう考えると前編でも説明した「翼は美希に自分の理想を重ね掛けしている」と言う事の理由もこれで説明がつくのではないでしょうか?

 

 

そして続いてのシーン

予想外の反応をしてきた翼に驚くジュリア。

しかも理由は「わたしが目指してるのは美希じゃなくて、わたしだよ」と答えます。

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翼は先ほど「ジュリアはアイドルでもいつものジュリアだよ」と言うジュリアに対する100点満点の解答をぶつけましたがその言葉はジュリアには届きませんでした。

しかしこの「わたしが目指してるのは美希じゃなくて、わたしだよ」と言う言葉をきっかけに、ジュリアの気持ちは大きく揺れます。それは何故なのか考察しましょう。

 

先ほど翼は「美希」ではなく「理想の自分」を目指していると説明しました。

ではジュリアはどうでしょうか?ジュリアは「理想の自分」から逃げています。

 

だからジュリアはこの言葉で先ほど自分が言った「自分のなりたい自分であれ」と言う言葉が自分にそのまま帰ってきた事に気がついて心が大きく揺れたのです。

 

 

 そして次のシーン

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翼は自分の夢を打ち明けます、その夢はまるで子供の様な翼らしい夢でした。

前編でも書いた通り翼は能力は高いですが、その行動原理の核となる精神面はまるっきり子供なのです。

 

 

それに対してジュリアの反応は

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その子供の様な翼の夢を「くだらない夢」だと評します。

 

 

 

 

なぜならそれは文字通りただの夢物語、現実はそんなに甘くないからです。

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 こんなのは子供が見る幻想、本気で目指す夢じゃない。

そんな現実は本当は誰だってわかっているんです。特に過去に夢を追いかけ、現実を経験してしまったジュリアには。だからジュリアにとってこの夢は「くだらない夢」

 

 

しかし翼は

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 翼はこんな大人なら誰も知ってる子供が夢見る幻想を、「くだらない夢」を、なんの恥じらいもなく本気で目指しているのです。

 翼と言うキャラクターがよく出ているいいシーンですね。

 

 

 

そんな翼をみてジュリアは現実を知る前の「過去の自分」を思い出します。f:id:peapoo-pnpk:20200626121553p:plainf:id:peapoo-pnpk:20200625214603p:plain

 その頃の「過去の自分」は翼と同じ「くだらない夢」を見ていました。

ジュリアの中で「過去の自分」は辛い記憶であり、救わなければいけない存在と言う意識が強すぎて、夢を見ていた頃の事など忘れてしまっていたのです。

 

これによってジュリアは「過去の自分」が「なりたい自分」から逃げずにちゃんと目指していた事を思い出した訳です。

 

前の項目でジュリアを救うには「過去の自分」は背負ったままで、アイドルの道を進む「勇気」があればいいと説明しました。

 

翼はジュリアに

「アイドルの姿でもジュリアはジュリアだよ」と少しだけ勇気を与えた。

そして「今の自分」は「なりたい自分」から逃げている事に気づかせてくれました。

そして「過去の自分」は「なりたい自分」を目指していたと思い出させてくれました。

 

完璧すぎるぞ翼…

これでジュリアを救う為のピースは全て揃いました。

後はジュリアだけの力で今回の問題はきっと乗り越えていける事でしょう。

 

話を戻しましょう。

ジュリアは今の気持ちを歌にせずにはいられません。

そして丁度こんなカットがありました。

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この状況で使われない訳ないんですよね。

歌詞も曲名も決まっていないそうです。果たしてどんな曲になるのでしょうか?

 

 

それは明日のライブのお楽しみ

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・その曲の名は"アイル"

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前編でこの物語は「アイル」誕生の物語だと言いました。

ついにここで誕生です。

 

 

「アイル」とはフランス語で「翼」と言う意味だそうです。

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これはジュリアが翼と向き合って感じた事、そして翼から教えて貰った事をそのまま歌にしたものであり、翼が歌う、翼を歌った、翼の為の曲です。

 

 

 

だから今度は「自分に合わせろ」なんて言いません。f:id:peapoo-pnpk:20200626193938p:plain

なぜならこの曲の主役は翼なのだから。

翼らしさは「自由」だから。

 

 

 

ついに「アイル」のステージです。

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ジュリアは翼に「くだらない夢」を全力で夢見る真っ直ぐな瞳を魅せられました。

だからその気持ちを歌にせずにはいられなかった。

 

 

 

そしてそれを今、翼を先頭にステージにぶつけます。

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ここの翼、めちゃくちゃかっこよくないですか?

これは完全に夢を見せる瞳ですよ。

 

 

それでは、そんな「アイル」の歌詞を考察して行きましょう。

勝算なんてなくたって構わない 
辿り着きたい場所があるから

「勝算なんてなくたって構わない」これこそがジュリアが翼に教えて貰った最大の言葉です。ジュリアは「なりたい自分」から逃げていました。それは自分がそうなれる事を信じられなかったから。ジュリアにとってのアイドルとはいつの間にか「くだらない夢」になってしまっていました。でもそんな事は関係ないんだと気づかせてくれました。夢を目指すのに「勝算」なんて必要ないんです。必要なのは「勇気」です。なぜなら「たどり着きたい場所があるから」その為に前に進めさえすればそれでいいのです。

 

ここの歌詞はジュリアが翼から受け取ったものがなんなのかと、それに対するジュリアなりの答えが感じられます。

 

賞賛なんてなくたって構わない 
カオを上げて道なき道をゆくんだよ

「賞賛なんてなくたって構わない」これもジュリアが翼に教えて貰った大きな言葉の一つです。ジュリアが「なりたい自分」になれる事の「勝算」を見出せなかった最大の原因は「なりたい自分」=「バカにされない存在」だったからです。だから「賞賛」に拘ってしまった。

しかしジュリアは「くだらない夢」を本気で夢見る翼の子供な瞳を見て、「過去の自分」の「なりたい自分」がなんだったのかを思い出し、それを叶える為に「賞賛」なんていらないんだと教えてくれました。

そして翼は、夢を追いかけるのに「勝算」も「賞賛」必要ない、だから顔を上げて夢への道を進めばいい、と言う事を示してくれました。

 

翼の「子供の幻想」だけど「本気の夢」と「周りを振り回す自由さ」を表した歌詞であり、ジュリアのアイドルの姿の自分がどう思われようとも構わないと言う覚悟を感じます。

 

行く手阻む山の中をくり抜いて向こう側へ
数秒間だけ見えた海の水平線キラリと光った

「アイル」はジュリアが翼から受け取ったものがなんなのかを非常によく感じられる曲ですが、基本的にはジュリアが感じた翼をそのまま歌にしたものです。だからこの曲のメインはジュリアではなくあくまで「翼」と言うのが前提です。

 「道なき道を行く」の補足です、翼に「急がば回れ」なんて言葉は似あいません。翼なら急いでる時ほど賢く、翼しか通らない裏技を使って進むのです。そしてそんな道の先にある翼の夢はとっても抽象的で不明瞭です。なぜならそれは大人なら誰もがただの夢物語だと知っている子供の幻想なのだから。しかしだからこそ一瞬だけ見えるその光は翼にとって何よりも美しいのです。

 

ジュリアが翼に見たその純粋すぎる瞳を歌に込めて「夢」を魅せたくなったその想いを感じますね。

 

知りたいことが山のようにあって
知らないことが海のようにあるの

翼の夢は「くだらない夢」で大人なら誰もが知ってる夢物語。でも翼にとってそれは海ほどある「知らないこと」、そして山ほど「知りたいこと」。

 

翼を翼たらしめているのは、翼がこれを追い求めている過程にあるのです。

なぜなら翼がもしこの「知らないこと」を、その「くだらない夢」の正体を知ってしまった時、それは翼ではなくなってしまうから。

だからこそ「知りたいこと」があり「知らないこと」がある今この瞬間の翼の瞳はこんなにも魅力的なのです。

 

ひやり暗い道の上に足音がフタツ響いた

きみが迷ったらあたしが手を引こう
あたしがまよったらきみが手を引いて

今歩いているトンネルを抜けたらほら
またヒトツ道が拓けるよ 遠くまで

ここの歌詞は2重の意味があるなと感じました。

1つ目の意味は「翼」と「ジュリア」です。

今回の物語を総括する様な歌詞です。

前編では「ジュリアが翼に」翼の自由を取り戻してあげました。

そして後編では「翼がジュリアに」夢へ進むべき道を示してあげました。

お互いが暗い道に立っている時、お互いがその暗い道から助け出した今回の物語をそのまま歌に込めています。

 

もう一つの意味はジュリアの「過去の自分」と「今の自分」です。

「足音が響いた」と言う歌詞は「流星群」でも登場した歌詞です。

「流星群」で響いた「足音」はその時見た希望の光の先で聞こえたものでした。

しかしここでは「暗い道」での足音です。これは「流星群」の時に感じたものとは違い、「今の自分」が立っている道は「現実」でした。そしてそれが「暗い道」に感じたと言う思いが現れています。

しかしその足音が「フタツ」響いてたと歌っている事がポイントです。

「スタートリップ」や「流星群」では基本的に「暗い道」に立つ自分は「ヒトリ」でした。

しかしここでは「フタリ」で立っています。これがジュリアの得た学びなのだと思っています。ジュリアは今まで「過去の自分」と「今の自分」がそれぞれヒトリボッチだと思っていましたが、翼に「過去の自分」の夢や思いを思い出させて貰った事で、自分が今立っている「暗い道」は「今の自分」がヒトリで立っているのではなく、「過去の自分」と共にフタリで立っているのだと言う事に気が付いたのだと考えられます。

そして「今の自分」は「過去の自分」を救う為にアイドルの道を選んだ訳ですが、同時に「今の自分」は「過去の自分」が見ていた純粋な夢やその想いに救われて、その勇気を胸に夢への道を進めるのです。

 

何十億年続いた世界だって 
だれも見たことのない景色を

あたしだけの道の先で

何回だって迷ったって構わない 

勝算なんてなくたって構わない 
賞賛なんてなくたって構わない 
胸を張って道なき道を進むんだ

翼の夢は「子供の幻想」であるが故に現実にそれを叶えている者はいませんし、翼でも叶えられることはないでしょう。だから翼の夢見るその景色はこの世界でまだ誰も見た事のない景色です。そんな当たり前に不可能な景色でも、「勝算」なんてなくたって夢見てる。そして誰になんと言われようと翼は胸を張って本気で目指している。

「賞賛」なんてなくたって

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・ジュリアの夢

 

こうしてステージは終わりました

そしてジュリアはステージの後、事務所でこんな事を口にします。

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この物語の主題は「ジュリアにとってアイドルとは?」でした。

ジュリアにとってアイドルとは「過去の自分を救う存在」であり「バカにされない存在」でした。そしてそれは「またバカにされるかもしれないもの」でもあり「自分にはなれないもの」だと思っていました。

だからなろうとすらしないで足を止めていた。

 

しかし今は「アイル」を経て

「バカにされるかもしれないもの」は

「バカにされたって構わないもの」に変わり

 

「自分にはなれないもの」は

「勝算なんてなくたって構わない、なりたいもの」に変わりました。

 

ジュリアにとってのアイドルは「現実」から「夢」へと変わったのです。

 

 

そしてラストシーでは

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「現実」を見て「夢」を閉ざしていたジュリアが、

目を開いて夢へと踏み出した最初の一歩。

正にその瞬間を見届けて、物語は幕を閉じるのでした。

 

 

・ジュリアの答え

 ゲッサン3巻の物語はここまです。

しかし実はこの物語を通してジュリアがどのように成長したのか、その後のジュリアの考えはどう変わったのかがジュリアの3つ目の曲「プラリネ」で描かれています。

最後にこの「プラリネ」の歌詞の考察をして終わろうと思います。

 

プラリネ

 

夢は夢として眠るときに見るものでしょう?
つまらない常識を捨ててあたしやっと大人になれた

ジュリアは苦い過去の記憶から夢を見る事と現実で目指すものは違うと思っていました。だから翼の夢を「くだらない夢」だと思った。

しかしそれはつまらない常識でした。

夢として眠る時に見る夢、つまり「くだらない夢」の事。しかしそれを見る翼の子供の様な瞳は本気だった。そして「夢」はそれでいいのだと教えてくれた。そうしてジュリアは立ち止まっていた場所から一歩踏み出せたのだから。

 

「プラリネ」では「スタートリップ」「流星群」から「アイル」を経て変わったジュリアが非常よく現れています。

 

後ろ指さされるくらい怖くなんてないから もう

「賞賛」なんてなくたって構わない。それを知ったジュリアはもう後ろ指さされてバカにされる事を恐れたりしません。

 

これも「アイル」で学んだものがしっかりとジュリアの中で消化されている事をしめしていますね。

 

あなたからもらったこの場所でもう一度素直になろう

悲しくたって悔しくたって未来にちょっと夢を見るの
まだあたしにだって子供みたいに信じる力があるよ

「スタートリップ」「流星群」でも登場した重要ワード「あなた」がまた出てきました。「あなた」=「過去の自分」です。

「過去の自分」から貰った場所、つまりジュリアが翼に魅せられた「くだらない夢」で思い出した「過去の自分」の「くだらない夢」の事です。

 

今回の物語は「過去の自分」が子供みたいに本気で信じていた「夢」は、現実を知った「今の自分」にとっては「くだらない夢」になってしまい進むのを止めてしまった。しかし翼との一件でその「くだらない夢」を信じる事で前へ進む一歩を踏み出した。と言う話でした。

 

そしてここの歌詞は

「過去の自分」が子供みたいに見ていた「夢」が現実を見てしまった「今の自分」にとっては「くだらない夢」になってしまった。しかしその時の「過去の自分」に立ち返る事で「今の自分」にだってその「くだらない夢」を信じる力がまだ出せるんだと歌っています。

 

今回の物語を経てそれがちゃんと「今の自分」の力になっている事を示しています。

 

後ろ指さされるくらい怖くなんてないでしょう?もう
夢は目を開いて見るものとあなたが教えてくれた

「アイル」を披露した後のシーンで口にした事がそのまま歌詞になっています。

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夢は目を開いてみるものと気がつくきっかけをくれたのは翼でした。しかし実際は翼が与えてくれたきっかけを通じて「過去の自分」が教えてくれたんだと歌っています。

 

ジュリアの中で「過去の自分」と言う存在はもう救うだけのものじゃない、自分も「過去の自分」に救われているんだと言う想いを感じます。

 

 

今をゼロとしてどちらがプラスになるのでしょう?
わからない だけど行かなくちゃ

 

今を「ゼロ」としてのこの「ゼロ」は物語の最後に一歩踏み出す前の時点を示しています。そして夢への一歩を踏み出す前と後では、どっちの方がいいのだろうか?と歌っています。

この疑問はジュリアがこの「ゼロ」の時点で抱えていた「ジュリアの葛藤」の事です。

しかし今のジュリアにはもうどちらがプラスになるかなんて関係ありません。なぜなら「勝算」なんてなくたって構わないのだと知ったからです。

だから「わからないけど進むんだ」と歌っている。

 

ここの歌詞はジュリアが「アイル」に込めた、「勝算なんてなくたって構わない」と言う言葉をしっかりと自分のものにもしている事が現れています。

 

後戻り出来ないくらい遠くまで来たんだ もう
あなたからもらったなにもかも道しるべにしてきたよ

嬉しくなって優しくなって前よりちょっと強くなるの
ほらあたしにだって出来ることが少しずつ増えてゆくよ

後戻りできないほど遠くに来たと言っています。

つい先ほどの歌詞では夢への一歩を踏み出す前の気持ちを歌っていましたが、ここからはそこから少し時間が経った後の事を歌っている様です。

ジュリアは、あの翼にダンスを教えて欲しいと頼んだ後、少しずつできる事を増やして、一歩一歩前に進んでいるんですね。

 

しかもそれは今でも「過去の自分」から貰った「夢」や「勇気」を道しるべにしているよと歌っています。

 

悲しくなって悔しくなって自分にもっと夢を見るの
まだあたしにだって出来ることが星が降るよに光るよ

ねえ 少し笑って時々泣いて 今よりもっと強くなれるから
未来はきっと子供みたいに信じるほどに光るよ

 そして当然「勝算」のないその道を進む事は決して楽な道ではありません。

悲しい思いや悔しい思いもあります、なぜならそれは「現実」だから。

そんな現実にぶつかっても、ジュリアは自分に「夢」を見る事をやめずに進む事ができたなら、そんな姿は星の様な輝きに変わるだろうと歌っています。

 

これはまさしく「くだらない夢」を本気で夢見る翼の瞳に魅せられたその輝きを、自分も出せるようにしたいと言う想いが込められています。

そうすれば現実にぶつかる度に強くなれる、夢を信じる想いが強いほどに輝ける。

だからこれからもこの「くだらない夢」を信じて、進んで行こうと歌っています。

 

ジュリアの曲は

「スタートリップ」でアイドルの世界へ飛び出し、「流星群」で「過去の自分」を救う為にアイドルの道を目指す決意をしました。

そして「プラリネ」では、現実を前に先へ進めなくなった「今の自分」が「過去の自分」に夢と勇気を貰い、お互いが支え合ってフタリで夢への道を進もう。と言う想いが込められています。

 

この「プラリネ」と言う曲名もそんな想いが込められた名前です。

プラリネとはフランスのお菓子で、砂糖とナッツを混ぜたものです。

甘すぎる砂糖をナッツの苦みで中和した古くから愛されている古典的お菓子だそうです。

つまりこの曲は

子供みたいな甘い考えをしている「過去の自分」を「砂糖」に例え、

逆に現実を見て大人になってしまった「今の自分」を「ナッツ」に例え、

 

そのフタリが混ざり合えば、お互いが支え合って夢への道を進めるよと言う意味が込められているのではないでしょうか?

 

 

 

・最後に

3巻の紹介は以上になります。

今回はゲッサンの番外編「ジュリアにってアイドルとは?」と言う主題の物語のよかった点や考察を紹介しました。

 

今回は4曲もの歌詞の考察をしました。

「スタートリップ」

「流星群」

「アイル」

「プラリネ」

どれも歌詞だけではなく曲自体もめちゃめちゃいい曲なので、もし曲を聞いたことがない人がいましたら実際に聞いてみて欲しいです。

そしてこれらの曲から是非ジュリアの学びや想いを感じて見て欲しいです。

 

実際私自身もこれらの曲に影響を受けて、1年近く書けなかった記事を書く事ができました。

 

この続きも近いうちに更新しようと思っています。

もう完全に理解するのが難しいからといって途中で投げる事はしないと思います。

 

それはこの物語を通して、

そして曲を通じて、

 

こんな趣味で書いてる記事なんて多少曖昧でも堂々と書けばいいと思わされたからです。

 

なぜなら

「勝算」なんてなくたって構わないんだから。

もちろん

 

賞賛なんてなくたってね。

 

 

 

それではまた