ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

虹ヶ咲の描く主体性と社会性の補足①

今回の記事は2部構成になります。(予定)

アニメ本編で主体性と社会性について、実際どのように描かれているのかを説明しないと恐らく前回の記事の内容がよくわからないものになってしまうような気がしたので今これを書いている。

 

前回の記事では虹ヶ咲が「自分がどうしたいかを考えて、頑張る過程を大事にしよう」そして「自分の弱さを受け入れて、その上でどう頑張ればいいのか?」と言うテーマで描かれている事を紹介したのが一つ。↓

虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について - ぴんぷくの限界オタク日記

 

そしてもう一つは虹ヶ咲が示したソリューション、主体性(やりたい事)と社会性(やるべきこと)のバランス絶対値1.5の範囲と言う内容を紹介した。↓

虹ヶ咲の描く主体性と社会性、前回の記事の謝罪 - ぴんぷくの限界オタク日記

 

各回はこれらのテーマがどのような状況でどのような理由で正しいとするのか?と言う方向性でかなり隙がなく描かれており大変説得力がある。

ラブライブはシリーズ毎でもそうなのだが、大きなテーマに対して発生する小さな疑問を自ら生み出してその問いに各回で答えて行き、大きなテーマが正しい事の根拠としている。今回はそれらがどのような描かれ方がされていて、どのような説得力を持つのかを実際に見て行こうと思う。

 

・虹ヶ咲の各話が描くテーマ

虹ヶ咲の各話を疑問と解答セットで分けると

主体性とは何か?

1話、4話、5話

社会性とは何か?

2話、10話

主体性と社会性のバランス

3話、7話、11話、12話

他者とは何か?

6話、8話

友達とは何か?

9話

 

今回の記事では ひとまず「主体性とは何か?」と「社会性とは何か?」の説明に抑えるつもりだ。具体的な話数で言うと1.2.4.5.10話だ。

残りの3.6.7.8.9.11.12話については次回の記事で書こうと思う。

 

それでは1話から順番に見て行こう

1話はそもそも主体性とはなにか?と言う問いへの解答を描いた回だ。

主体性とは言い換えると「やりたい事」だ。しかしこの言い換えはあまり適切ではない。

では一体「やりたい事」の中で何が主体的で何が主体的ではないのか?と言う事を示す事で主体性の所在を説いた。

 

ここで比較されているのは以下2点

①アユムのやりたい事=ユウと一緒に何かをする事。

②アユムのやりたい事=スクールアイドルとしての活動をする事。

 

この2つは両方ともアユムの「やりたい事」であり両方とも主体的であると取れるのだが、虹ヶ咲は「この2つは本当に同じか?」と問いている。結論から言うとこの2つは明確に異なり②こそが尊重すべき主体性であると解答している。

 

どういう事かと言うと①は

「何かをする事」=手段で

「ユウと一緒にいる事」=目的だ。

対して②は「スクールアイドルとして活動する事」=手段で

「なりたい自分になる事」=目的だ。

この二つは一見同じ様に見えるが全然違う。

 

なぜなら②は目的である「なりたい自分になる事」の為の手段として「スクールアイドルとして活動する事」を自ら選択していて替えが利かない。ちょっとした外的要因では簡単には諦められない事になる。つまり「やりたい事」には必ず「やるべき事」が付きまとうのだ。これこそが主体性である。

 

対して①は手段そのものが目的になってしまっている為、もはや手段がなんでもいい事になっている。仮にそれが「スクールアイドルとして活動する事」を選択したとして、その選択にはいくらでも変えがある為外的要因で簡単に諦めが着いてしまう、つまり①の「やりたい事」は「やらなくてもいい事」なのだ。これは主体的であるとは言えない。

 

主体性と言うニュアンスの「やりたい事」には「やるべき事」が必要であり「やらなくていい事」であってはならないのだ。そしてアユムにはついにそういう意味で「本当のやりたい事」ができたと言う事を示した回が1話だった訳だ。

 

次に4話です。

この回は1話で示した主体性とは何か?と言う問いの続きだ。

「やるべき事」と直結していればその「やりた事」は全て主体性なのか?と言う問いである。

アイは成績優秀スポーツ万能で趣味は部活の助っ人と非常に高スペックだ。これはアイがそれら全てを楽しいと思って取り組んでいるからに他ならない。そういう意味ではアイは「やりたい事」を全うしているし勉強や運動は当然「やるべき事」だ。

 

しかしこの回でアイは「正解がある物は楽でいい、自分の考えなんて必要ないから」と感じる用になる。アイにとっては勉強もスポーツ簡単なのです。なぜなら自分らしさが問われずただやるべき事をすればいいからです。しかしスクールアイドルには正解がない。何をすべきかが人それぞれで、そこには「自分らしさ」が問われている。そしてそれは自分が「やりたい事は何か?」に依存するので自分で考えなければなりません。

 

この回で示す主体性はここにある。

「やりたい事」は「やるべきこと」がついて回るだけではいけないと言う事です。たとえその「やるべきこと」が「やらなくていい事」ではなかったとしてもそれが受動的な行いならばそこに主体性はないと主張しています。つまり主体性の所在は「やりたい事」を自分で見つけて「やるべき事」を自分で考える事にこそあると言う訳ですね。

 

続いて5話です。

5話は自分の為ではなく誰かの為に活動する事を「やりたい事」とするのは主体性と呼べるのだろうか?と言う問いだ。

確かに他人の為の活動と言うのは社会性的な活動なのではないか?それは主体的と言えるのか?と言う疑問はもっともだ。実際社会性とは「他人の為の活動」と理解して間違いはないはずだ。5話ではこの疑問に対する解答が描かれている。

エマは「みんなの心をぽかぽかにする」と言うのがスクールアイドル活動をやる上での目的となっている。しかし親友であるカリンがスクールアイドルに興味を持っているにも関わらず不安な思いが優ってしまいスクールアイドルから距離を取っていた事を知る。これはエマにとっては大問題だ、なぜならみんなどころか親友の心すらもぽかぽかにできていないのだから。そこでエマは歌でカリンがスクールアイドルになる勇気を与えました。そして二人は共にスクールアイドル活動に励む事となります。

さて、この一連の活動はエマにとって本当に他人の為だけの行いだったと言えるでしょうか?もちろん違うでしょう、仮にカリンがスクールアイドルから距離を取る事をエマが尊重してしまった場合確実にエマはその選択を後悔する事になります。つまりエマはちゃんと主体性を持って自分の為の行動を取っているのです。

 

これが他人の為に活動する事を「やりたい事」とする事が主体性と呼べる根拠になっています。

 

続いては2話と10話の社会性とは何か?について見て行きましょう。

 

2話では社会性がなんの為に存在するのか?と言う事が描かれている。

カスミンとセツナの主体性同士がぶつかってしまう。これらの主体性はどちらをどの様に尊重すればいいのか?と言う問いになっており、結論としては「他人の主体性が尊重されない様な自分の主体性は尊重できない。」と解答している。そしてこの時に発生する「自分の主体性が尊重されない」と言うパターンが起きる事こそが社会性なのだ。

 

この回ではカスミンが自分の主体性を蔑ろにされない為にセツナに対して社会性を要求した。結果として同好会は解散した。そしてその後カスミンは新たに立ち上げた仮の同好会でスクールアイドル初心者であるアユムに自分のやり方を教え込む。しかしそうして教えているうちにカスミンは自分のやり方をアユムに押し付けている事に気がつく。これはアユムの主体性を蔑ろにしている行為でありセツナと同じだ。カスミン「他人の主体性が尊重されない様な自分の主体性は尊重できない。」と言う事を知った。つまり社会性の存在意義は他者の主体性を尊重する事であり、その代わり他者にも自分の主体性を尊重してもらう。と言う意味なのだ。

 

10話の合宿回はまさに社会的な活動そのものだ。

合宿はメンバー一人一人の力を底上げすると言う目的(主体性)の為に、お互いサボらないように監視し合う(社会性)と言う意味合いがかなりある。これは「自分の主体性の為に他者を利用し、他者の主体性の為に自分も動く」と言う事であり、2話で示した社会性の存在意義と合致する。そして虹ヶ咲ではここから更に一歩踏み込む。

通常合宿は海か山に行くのがお約束なのだが虹ヶ咲では普通に学校で行うのだ。これは彼女達の目的意識がかなりはっきりしているからに他ならない。なぜなら彼女達の所属するスクールアイドル同好会と言う組織は必要性に応じて集まっているに過ぎないからだ。それは彼女達が組織としての目標であったラブライブを一度放棄していると言うのが非常に大きい。ラブライブと言う組織としての目標は彼女達一人一人の為にならなかったのだ。だから一度解散した。しかしラブライブを目指さなくとも同好会は必要だったから再結成したに過ぎないと言う訳だ。この組織が組織の為ではなく個人個人の必要性の為に存在している事は明白だ。

そう考えるとこの合宿が歪である理由が納得できる。誰も組織の為に何かをしないのでお約束を守る必要がない。「全体の技術向上」と言う目的だけ達成できればそれでいいのだ。故に場所には拘らない。結果として最も合理的な学校になる訳だ。

ここに虹ヶ咲の描く社会性とは何か?と言う問いが現れている。

虹ヶ咲の描く社会性はどこまでも主体性を尊重する為にあるのだ。これが虹ヶ咲の描く社会性と言う訳だ。これこそが1話の「止めちゃいけない、我慢しちゃいけない」と言うセリフの本当の意味だったと言う事です。

 

 

以上虹ヶ咲の描く主体性と社会性について各話を具体的にみて来ました。

前回の記事で何が言いたかったのかの補足になればと思っています。

 

今回の記事は以上になります。

続きはまた次回。