It's MyGO感想、無色でもそこにあるもの
BanG Dream it’s my go見ました。
想像していたよりも遥かに面白かったです。
バンドリシリーズは前からかなり面白いと思っていて、アニメはリアルタイムで全部追ってます。しかし3期が終わった辺りから雲行きが怪しくなって来てもうやる事ないんじゃないかなーと感じてたんですけど、ここにきて凄いのが来ましたね。
まずトモリの歌声が凄いです。なんて言ったらいいんですかね、迷い声?
とにかく世界観にピッタリなんですよね。
中でもよかったのは「迷うことを迷わない」っていう謎の謡い文句を回収する12話の迷路日々です。この曲を聴けばこの言葉の意味がよくわかります。
この回はかなりよかったです。このシーンの為だけでもこのアニメを観る価値はあると思います。
あと個人的にはアノソヨの絡みが好きですね。
アノンが好き勝手やってくるのにソヨがマジトーンでキレてるシーンはどれも面白くて何回も観たくなります。
という訳で今回はmy goの感想を書こうと思います。その為にはそもそもバンドリシリーズとはなんだったのか?という話からしなければなりません。
・バンドリ全体のテーマ
バンドリシリーズは「結果よりも大事なこと」 について考えさせられる物語だと思っています。
バンドリという物語は基本的に全て、結果に囚われている少女たちが少しずつその呪縛から解放されて行く物語です。
1期では、香澄の結果を顧みない行動力に周りが影響を受けて、ポピパメンバーが踏み出せなかった一歩を踏み出していくストーリーでした。
特におたえとりみりんはわかりやすく香澄に背中を押されて一歩を踏み出せたキャラクターなので説明不要でしょう。しかし有咲と沙綾は少しわかりにくいので説明します。
まず有咲ですが、有咲は学年トップの頭の良さです。その所為で友達がおらず不登校でした。そこへバカ丸出しの香澄が現れて散々振り回される訳ですが、振り回されていくうちに有咲はバカな香澄との時間に価値を見出せるようになっていきます。
これは有咲が「結果よりも大事なこと」を見つけたからだと言えます。
次に沙綾ですが、沙綾がポピパに入ろうとしなかった理由は母親の代わりに家事をしなければならなかったからです。家事をしながらではバンドの足を引っ張るだけだし、それなら他の人がやった方がバンドにとって有意義だろうと考えていました。しかしポピパのメンバーはどんなに足を引っ張られようとも沙綾とバンドをやる事に価値を見出している事がわかり沙綾はポピパに加入することになります。
これは「バンドにとっての最善」という結果よりも大事なことがあったからだと言えるでしょう。
その後の話も全て「結果よりも大事なこと」というテーマで一貫しています。
中でも最も象徴的なのはスペースのオーナーの「やりきったかい? 」というセリフです。
ポイントなのはオーナーはバンドを採用する時、音楽のクオリティよりもベストを尽くしたかどうかを見ています。これはオーナーが「 結果よりも大事なこと」を重視している事を意味します。( これが最終的に3期のガールズバンドパーティ決勝でオーナーが3チーム全員に同等の賞を渡した理由にもなっています。)
そして2期ではおたえが結果と向き合ったことで結果よりも大事なことの重要性を再確認します。さらに3期ではチュチュが結果の呪縛から少しずつ解放されていく話になって行く訳です。
このようにバンドリはあらゆるところで「結果よりも大事なこと」 について考えさせられるような作りになっており、かなり一貫したテーマを持った作品です。
ここで注目したいのがこのバンドリのテーマはラブライブと非常によく似たテーマであるということです。
「結果よりも大事なこと」とは「過程の重要性」 とも言い換えることができます。
ラブライブのテーマが過程の重要性であるという話は過去に書いたことがあるので詳しくはこちらを参照してください。↓
虹ヶ咲のテーマと8話の問題点について - ぴんぷくの限界オタク日記
簡単に説明すると、ラブライブの特徴はアイドルではなくスクールアイドルに拘るという事です。
だからラブライブはシリーズ毎に卒業や廃校という終わりが存在します。ラブライブは終わることを前提として、その過程にどんな価値があったのか?ということを考える「 過程の重要性」についての話な訳です。
中でも最も象徴的だったのサンシャインでしょう。サンシャインでは無印と違って廃校を救えません。しかし廃校を阻止しようと頑張った彼女達の行いは果たして意味がなかったと言えるでしょうか?
私は彼女たちが残した軌跡には大きな意味があったと思います。これが「過程の重要性」を描くラブライブのテーマです。
そしてこれは「結果よりも大事なこと」とも言い換えられる訳です。
・My goのテーマ
バンドリとラブライブのテーマの話をしたところでようやくmy goの話をしましょう。
My goもバンドリ共通の「結果よりも大事なこと」という大きなテーマに則った物語になっています。しかしMy goではこれまでバンドリシリーズとは大きく違う点があります。
my goではポピパやラスの時とは打って変わって、メンバー間で誰も目的を共有出来ていません。
アノン→目立ちたい
トモリ→バンドはしたが辛い思いはしたくない
タキ→トモリの歌を高い完成度で演奏したい
ソヨ→ crychicを復活させたい
ラーナ→おもしれー女とギターを弾きたい
という有様です。
トモリは昔ファーストライブを最後に解散した過去にビビッて歌えない。
アノンは目立ちたいだけでギターは初心者だから全然ついて行けてない。
その所為でタキは下手くそアノンにブチ切れる。
ソヨはcrychicのメンバーの一人がもう戻らないと知って途中でグレる。
ラーナは演奏以外に興味がない。
この状態でファーストライブまで駆け抜けた訳ですが結果は見ての通りです。誰の目的も達成されないままファーストライブ後にバラバラになって解散状態となりました。流石に原因を振り返るまでもありませんが、かなりに重要なので一応確認しておきましょう。
このバンドではメンバー間で目的が共有できていません。その上で誰も目的を諦めないので、結果として誰も目的を達成できません。目的を達成できないからバンドを続ける意味がないので解散、という具合です。
しかしそんな状況になっても再びチームは集まります。
ここでポイントなのは再び集まったのに、相変わらず目的は共有出来ていないところです。
目的が共有できていないということは、再び集まった所で結局誰かの目的が達成される事はない事になります。
では何故彼女達は目的が達成できないのにバンドを続ける事になったのでしょうか?
それはこのバンドに「目的とは別の何か」という価値を見出したからではないでしょうか?
これは「結果よりも大事なこと」を彼女達がmy goと言う居場所に感じたからだと言えます。
これが「迷子でもいい」「迷子でも進め」という言葉の意味だと思います。
このように my goではバンドリの3期までとは少し違った視点から描くことで、メンバー間で目的が共有できていなくても「 結果よりも大事なこと」(過程の重要性)というテーマが有効なことを示したことになります。
そしてこれは虹ヶ咲の別解答でもあるんですよね。
実はmy goのテーマは虹ヶ咲のテーマとよく似ています。
虹ヶ咲の詳しい感想は以前「主体性と社会性のジレンマ」 みたいな視点で書いたことがあるので、 気になる方はこちらに詳しく書いてあります。
虹ヶ咲の描く主体性と社会性のジレンマ - ぴんぷくの限界オタク日記
虹ヶ咲がなんだったのかについてはちゃんと説明すると長くなりすぎるので、簡単にだけ触れます。
虹ヶ咲のスクールアイドル同好会では「ラブライブに出場する」という目的で練習していたのですが蓋を開けてみれば本気でラブライブを目指していたのはセツナしかいませんでした。その所為で無意味にハードな練習をメンバーに押し付けてしまっていた事に気がつきます。そこでセツナはメンバーに迷惑をかけない為にチームを解散します 。
ここから虹ヶ咲の物語は始まる訳ですが、注目して欲しいのは虹ヶ咲が抱えている問題とmy goが抱えている問題は非常によく似ている所です。
虹ヶ咲もまた、my goと同様に「メンバー間で目的を共有できていない」という問題について向き合った作品ということになります。
ここで面白いのは、この「目的を共有出来ていない」という問題に対する解決方法が真逆である所です。
虹ヶ咲ではこの問題に対する解決方法として「目的の破棄」という手段を取ります。
今でもユウの「じゃあラブライブなんて目指さなくていい」というセリフは記憶に新しいです。
虹ヶ咲ではメンバーに迷惑をかけず、尚且つスクールアイドルも続ける為に「 ラブライブに出る」という目的そのものを切り捨てます。
これによって「目的は特にないけどスクールアイドル活動をする」という訳の分からない状況を肯定したことによって同好会を存続させます。虹ヶ咲が凄いのは、この「目的を切り捨てる」という通常ではあり得ない選択を取るところです。
この背景には、ラブライブ共通のテーマである「過程の重要性」がある訳です。
このように虹ヶ咲とmy goでは、どちらの目的もいずれ消滅し、過程の重要性が残って行くという意味では同じですが、手段が違います。
my goでは「目的を破棄」するのではなく「目的を破綻」させています。
この「目的の破綻」とは言い換えると「結果はどうであってもやり切る」という事でもあります。
(これはオーナーの言葉がそのまま虹ヶ咲との違いになっているとも言えます)
My goでは虹ヶ咲と違って誰かが目的を切り捨てたりしません。これによって誰の目的も達成されないまま全員の目的が破綻することになります。
これによって「目的は破綻しているけどバンドはやる」というこれまた訳の分からない状況を肯定してバンドを存続させます。
このようにmy goと虹ヶ咲では「結果よりも大事なこと」=「過程の重要性」という共通したテーマを描いているにも関わらず、その手段が真逆になっているという関係性にある所が非常に面白いです。
これがmy goは虹ヶ咲の別解答でもあると思っている理由です。
以上の事を踏まえるとOPテーマ壱雫空の「無色でもそこにあるもの」という歌詞の意味が見えて来ます。
my goの彼女達はそれぞれが異なる目的を持って、その目的を達成する為にバンドに参加していました。 しかしバンドを続けて行く過程で「目的以外の何か」に価値を感じるようになって行った訳です。
つまりこの「無色でもそこにあるもの」とは、「 バンドを続ける目的が無色になっても、その過程で得た価値のある何か」と言う解釈ができるようになります。
そう考えると虹ヶ咲とmy goのテーマは似ているようで実は「過程」の解釈が微妙に違う事が見えてきます。
虹ヶ咲における過程の解釈は「意識して紡いでいくもの」なのに対してmy goの過程の解釈は「勝手に紡がれていくもの」という違いがある事になる訳です。
つまりmy goという作品は、頑張った末に目的を失ったとしても、そこに残ったなにかは素晴らしいものだと肯定する物語だったのではないでしょうか?
これがmy go最大のテーマだと私は思いました。
そうなるとAve Mujicaが今後どうなって行くのかもなんとなく見えてきます。
色々な思惑が渦巻く中で急ピッチで出来たAve Mujicaというバンドも、活動していく過程で徐々に掛け替えのないチームになって行き、サキコの目的が破綻した後もAve Mujicaは続いて行くのだろう、という予想が立ちます。
最後に、
我々も生きていく中で「最初はこういう目的でやってたはずなのにどうして…」みたいな事って結構あるじゃないですか。それでもなんとなく続けちゃってる事って沢山あって、ふとした時に「何のために続けてるんだろう」ってなる事もあると思うんですよね。
それは仕事かもしれないし趣味かもしれない、はたまたアニメ制作なのかもしれません。
そんな想いを胸に今を頑張る人達を肯定する作品がmy goだったんじゃないかなと私は思っています。
だから安心して欲しい
私たちが目的を見失っても続けているそれは
きっと価値のある「無色でもそこにあるもの」なのだから。
ミリアニ初週感想、彼女たちのスタートラインとミリオンの意味
待っていればアニメの放送が始まるでしょうが流石に待てません。
映画館で先行公開するので早速初週の4話までを観てきました。
かなり面白かったです。
基本的に自分の中でミリオンと言えばゲッサンなのでそことの違いを確かめに行った訳ですが、素晴らしかったです。
正直12話全部終わってから書こうかなと思っていたのですが、4話時点で既にまとめておいた方がよさそうな雰囲気がかなりあるので、メモとして残しておく事にしました。
以下ネタバレ全開です。
・ゲッサンから見るミリアニ
物語は未来が色々な部活を掛け持ちして、やりたいことが多すぎて決められない所から始まります。校庭の蛹の描写があるのは「まだ何者になるのか決まっていない今の未来」を象徴しています。この辺はゲッサンと全く同じと言っていいでしょう。
しかしゲッサンと大きく違うのは未来達のスタートラインが揃っているところです。
ゲッサンでは未来がアイドルになるかなり前から静香と翼はアイドルです。
ゲッサンだと静香が未来に色々と教えて行く流れになるのですが、ミリアニは3人が先輩達に色々教わる流れになっています。
これはかなりいいと思います。
確かにゲッサンでは静香や翼がどうやってアイドルになったのかが描かれていないので、全体的には「イチポムの話」というよりは「未来の話」に傾いていた印象があります。
これに対してミリアニではイチポムの3人のスタートラインが完全に揃っており、3人の成長がそれぞれ平等に描けるようになっています。
つまりこの蛹が象徴するのは未来だけではなく、静香と翼(と恐らくP)のことも同時に表していることになる訳です。
そしてこれがもたらす展開がゲッサンでは描けなかった新たな物語となっていきます。
・静香のスタートライン
未来のスタートラインはゲッサンと同じで、沢山のやりたいことの中から一番を選べないというものでした。ではゲッサンでは描かれていない静香のスタートラインはどこにあったのでしょうか?
今回ミリアニで一番感心したのは、あの会場に未来がいなければ静香はアイドルのオーディションに応募する事はなかった所です。
これ描かれ方がちょっと不親切で皆に伝わってるのか微妙に不安なんですけど、静香は1話のライブ会場で未来に出合ってなかったらオーディションには応募してません。
静香にとってアイドルは憧れですがそんなものは夢のまた夢くらいに思っています。現実は親がそれを認めないので、この時点の静香に応募する勇気はありません。出来ることと言えば大好きなアイドルのライブを見てオーディションの用紙を羨ましそうに眺めることくらいです。
そんな静香が未来との出会いで変わったのがあの1話だった訳です。
確かに言われてみれば、ゲッサンで静香が親を説得してアイドルをやってるのって大分話が飛んでるんですよね。
静香にとってアイドルは手の届かない所にあるものだった時もあるはずです。
今回のミリアニではそこをしっかり描こうというわけです。
だから恐らくミリアニの静香はオーディションに合格した事をまだ親に言えてないんじゃないかと思っています。この辺がどうなっていくのかは5話以降に期待している部分です。
・翼のスタートライン
正直ゲッサンから入った身からすると翼の印象が1番変わった気がします。翼ってあんなに最初からPに懐いてる感じなんですね。
では翼はスカウトをしてくれただけのPになぜあんなにベタベタなのかを考えてみます。
答えは恐らく「決めてくれたから」ではないでしょうか。
これが翼のスタートラインを説く鍵です。
翼はオールラウンドタイプの天才です。基本的にはなんでもできます。
しかしその才能をどうやって使うのが一番いいのかが、わからなかったんだと思います。
きっと周りに相談しても「翼ならなんにでもなれるよ」としか返ってこない。そんな時に「君にはアイドルの才能がある」とスカウトされたんじゃないかなと思います。
つまり「なんでもできるから何者になるかを決められない」これが翼のスタートラインだと思います。
そういう意味では翼のスタートラインは未来と近いと言えるでしょう。
そしてこの3人のオーディションを受けてPは、ナムコプロに新たに入った39名のアイドルに「ミリオンスターズ」という名前を付けます。
では何故「ミリオン」なのでしょうか?
その答えは彼女達のスタートラインを振り返ると見えてきます。
・ミリオンの意味
彼女たちのスタートラインに共通しているのはどれも「可能性が可能性のままになっている」ところにあります。
翼と未来は無限の選択肢から、これ!というものを選べないでいたし、静香は夢があるのに「そんなに甘くない」とか言って踏み出せない。
しかしそんな可能性で止まっていた蛹の彼女達が、ついに「オーディション」という具体的な目標に向かって歩き始めます。
そんな彼女達を見たPの眼に映ったのは39人が実際にステージに立っている具体的な姿でした。
つまり、ミリオンの意味は「具体性」です。
この具体性とは「可能性を可能性のままにしない」という意味です。
可能性は無限に存在します。しかしその可能性はどんなに大きくても、どこかの数字に着地しなければ可能性のままです。
つまりミリオンとは「限りなく大きい、しかし具体的数字である」ということです。
100万と言う数字はとてつもなく大きな数字ですが、決して数えきれない数字ではありません。限りない無限の可能性を、限りある有限の現実のものにする。という意味が込められているわけです。
要するにミリオンとは「夢を叶える」という意味だったことになるんですよね。
だから社長が「見えたんだろ?アイドル達の輝きが、100万の命の鼓動が」
と言っていた訳です。
なんで今までこれを描かなかったのか不思議で仕方ないんですけど、これは流石に大事件だと思って取り急ぎ記事にしておこうと思った次第です。
ここから物語は原っぱという何もない空間(無限の可能性)から、ライブができる場所(自分たちが具体的にできること)を作っていく話に繋がっていくし、屋上から見る景色は星空じゃなくて町の光な訳です。
そう考えると今後の展開も、ふんわりしたやりたい事を具体的な構想に持って行く感じの話になりそうですね。
5話以降も楽しみです。
リコリス・リコイル感想、才ある者達の生存戦略
リコリス・リコイルを観ました。
そこそこ面白かったです。
でもここで高く評価されているのってキャラクターの心情描写的な
確かにチサト役の安済知佳の演技があまりにもずば抜け過ぎていて
しかし個人的にはその方向だけでリコリコのガバを擁護するのには
この話って要するにアラン機関から生まれた
今回の記事ではリコリコはこの社会問題に対する1つの回答を提示
・ノブレスオブリージュの機能不全
ノブレスオブリージュとは能力の高い者は社会的な責任と義務が付
これを大々的に描いたアメリカを代表する作品がスパイダーマンで
しかしこのノブレスオブリージュ的な考え方は日本では完全に崩壊しています。
社会が個人を助けてくれる保障がなくなった現代社会において社会
恐らくまだ社会の為に命を削ってガンダムに乗ろうなどと考えている人ははっき
これがアンチノブレスオブリージュの流行と言う社会問題の本質で
さて、以上の事を前提にまずは「リコリス」
リコリスは社会の平和を守るために存在する凄腕の暗殺者集団です
この構造はまさに現代社会でノブレスオブリージュが機能不全に陥
一方「喫茶リコリコ」(チサト)はこれとは対照的に「
これに対してピーター世代、
ヨシさんは「天才は神からのギフトだ。
個人的にヨシさんの好きなセリフは8話で「
そもそもノブレスオブリージュとは「
だからこのふたつの思想は「社会の為か」「個人の為か」
つまり、リコリコと言う物語はチサトとヨシさんと言う2世代間の
ここで勘違いしてはいけないのがノブレスオブリージュを否定す
確かに社会にとってリコリスは捨て駒ですが、
だからチサトとDAは険悪な関係でありながらもお互いを利用する
これがわかりやすくアンチテーゼとして表れている人物が真島です
逆に言うと真島とチサトの違いはそこにしかなく、
厳密に言うと真島はマクロな社会と協力する気がないと言うよりは
一見すると真島は憎き社会を破壊しようとしている復讐者のように見えますがそうではありません。
真島にとって気に食わないのは単に社会が戦争を隠蔽しているという事に対してです。
真島の爆弾がフェイクだった理由はここにあります。社会を滅ぼすつもりなど最初からなく、
この意味ではチサトもマクロな社会を相対化されたひとつのコミュ
そしてよくみるとこの実践的な方針は真島とヨシさんが一致しています。つまりこの3者の対立関係は実は密接に繋がっており非常によくできることがわかります。
どういう事かと言うとチサト、ヨシさん、真島の3者の関係は図にすると以下のようにな
この3者の関係性を考えるとリコリコと言うアニメが何を描きたか
チサトとヨシさんは理念的な思想も実践的な方針も完全に対立して
(
ここまでくるとリコリコの示すアンチノブレスオブリージュの流行
つまりこのアニメはアンチノブレスオブリージュと言う思想をかな
だからこの物語の結末ってヨシさんはマクロ社会の責任を背負った
まとめるとリコリコと言うアニメは現代社会における才ある者達の
ノブレスオブリージュが崩壊した現代社会で我々がヨシさんの様に顔も
映画ゆるキャン△延長戦、鉄骨ドームの解釈は「大人の社会」 で妥当か?
映画ゆるキャン△の感想を書きました。
https://peapoo-pnpk.hatenablog.com/entry/2022/09/13/171813
ありがたい事に読んでくれた人が大変面白い意見をくれたので、前回の記事の延長戦と言う事で別解釈について少し書こうと思って います。
論点は鉄骨ドームの解釈を巡る問題です。
この問題を中心として映画ゆるキャン△の新たな可能性について書こうと思っています。
と言う訳でまず前回の記事での鉄骨ドームの解釈をおさらいしておきましょう。
この鉄骨は内側から星を見るとプラネタリウムの様な景色になる。
つまり「作られたもののような星空が見える場所」
学生時代の失われた日常は自然に生まれる星空の様な日々だが大人になってからの日常はプラネタリウムの光の様に作られた日々です。
さらにこの鉄骨ドームは元々鳥が自由に出入りできてしまう「鳥かご」だった。
つまり「不自由に見えて実は自由な場所」
不自由に見えるのは「社会」です。我々大人は社会の奴隷としての不自由さを持っている。
しかしその社会の拘束力って別に強制じゃないしいつでも出入りできる訳です。
以上2つの事からこの鉄骨ドームが象徴するものは「大人になった彼女達を取り巻く環境」なのではないか? と言う解釈でそれを撤去しない、つまり社会と隣り合わせでやって行くキャンプ場作りこそが大人の輝かしい日常なのではないか?という話をしました。
今回の記事ではこの鉄骨ドームの解釈に待ったをかけるスタンスで映画ゆるキャン△の価値を再検討して行こうと思います。
まずそもそもこの映画の結論、と言うかスタート地点はなんだったのかと言うと、「 グルキャンもいいけどソロキャンもいいよね」って言うアニメ版の結論から派生した「学生時代(グルキャン)もよかったけど社会人(ソロキャン)も悪くないよね」と言うメッセージの存在が前提です。
そう考えるとここで言う「鳥かご」って本当に社会(ソロキャン) の事ですか?という疑問が生じる訳です。これはかなり的を得ていて面白いと思います。
確かに考えてみればグルキャンとソロキャンの良さの違い、ひいては子供と大人の良さの違いって「鳥かご」に象徴されますよね。ここで言う鳥かごとはグルキャンのことです。
最初にしまりんがグルキャンに参加していなかった理由ってグルキ ャンがまるで鳥かごの中にいるみたいに不自由なキャンプになってしまうのではないかと思っていたからですよね。でもやってみたら実はそんなに悪いものじゃなかったという事を知ります。
これって別にグルキャンが不自由であることが無効になっている訳じゃなくて「鳥かごみたいに不自由なのもいいよね」と切り分けられています。
つまりそもそもゆるキャン△って自由である事の良さが「 ソロキャン」に象徴され、不自由である事の良さが「グルキャン」に象徴されているんですよね。
そう考えるとやはり社会に羽ばたいて「ソロキャン」となった彼女達を取り巻く環境の事を「鳥かご」と解釈をするのは少しずれている様な気がしてきます。
だとしたらここで言う「鳥かご」ってやっぱり「グルキャン」の事だし「学生時代」の事だった事になる訳です。
確かにそもそも「学校」と言う空間は「社会」と比べてあまり自由がない。服装、頭髪、仕事、 等々全てが制限されている。 この閉鎖空間の中で大人の自由を羨む学生がいる事は別に珍しくなかった様に思います。そう考えると学校って正に「鳥かご」みたいじゃないですか?
だとするとプラネタリウム、つまり作られた星空を映し出す空間と言うのは「大人になってから手に入れなければならないもの」ではなく、「学生時代の輝かしい思い出」の事なのではないか?と言う解釈の可能性が生まれます。
なぜならよくよく思い出してみると学校で得られる思い出とは「 部活動」「文化祭」「修学旅行」とどれも学校側に仕掛けられた「 作られた思い出」でしかないんですよね。
そう考えると「鳥かご」であり「プラネタリウム」 でもあるこの鉄骨ドームって「大人になった彼女達を取り巻く環境」ではなく「失われた学生生活の日常」の事なのではないか? と言う新しい解釈が可能になります。
しかし仮にそうだとするならば鉄骨ドームの外側が「ソロキャン」と言う事になります。
そうなるとここで新たな問題が出てきます。
それは不自由だったはずの「鳥かご」の中での日常(グルキャン)はあんなにも輝いていた。これに対して「鳥かご」から出たしまりんの、ひいては我々大人の日常(ソロキャン)は果たして輝いていると言えるのか?と言う問題です。
・我々は自由の刑に処されている
学生時代って学生である事に色々と不自由を感じて大人に憧れるものですが、いざ大人になって自由を得てみるとそこで待っているものって「 無」なんですよね。
それは鉄骨ドームで運用される予定だった鳥達と同じとも言えます。鳥かごの中でエサを貰いながら仲間たちと飼われる生活は確かに不自由かもしれない。だけどいざ外に飛び出してみたらどこに行ったらいいのかわからなくなってしまう。だったら最初から鳥かごの中にいた時の方が幸せだったんじゃないの?って言う事は結構真理だったりします。
つまりこの鉄骨ドームが象徴する大人になる事の本質は、「社会」と言う名の鳥かごに囚われる事ではなく、鳥かごから羽ばたいて「自由」と言う名の虚無人間になる事なのではないか? と言う解釈に変わる訳です。
確かにこれだと「ソロキャン」はやっぱり輝かしい日常ではない事になってしまいます。
この問題を解決する為に重要になって来るのが、そもそも「 キャンプ」とはなにか?と言う話です。
これはアニメ版でも時折出て来るんですけど要するにキャンプって マッチポンプなんですよね。勝手に不自由な状況を作って勝手にそれを解決して喜んでいるのが キャンプの本質です。
これ冷静にやってる事かなりやばくて、言ってしまうとただのマゾヒストなんですけど、これこそが我々が自由の刑に処されている「大人」 と言う鳥かごの外の環境の中で、虚無人間ではない「個」を持ったソロキャパーである事の価値を担保しているんです。逆に言うと大人になったしまりんや我々が虚無人間にならない為に はマゾヒストにならなければならない事になります。
この事から人生にはマッチポンプつまり「キャンプ」が必要不可欠である事がわかります。 つまり我々大人の日常が輝く為には「ソロ」ではなく「 ソロキャン」でなくてはならない訳です。
さて、このように解釈して行くと「輝かしかったあの頃の日常」と「その後のソロキャンとしての日常」は実は最初から問題なく輝いている事になり、彼女達は一体何を「再生」する為にキャンプ場を作る事になったのか? と言う疑問が生まれる事になります。
この答えを探って行くと映画ゆるキャン△ のもう一つのメッセージが浮かび上がってきます。
ヒントになるのは星空とプラネタリウムです。
ここで言う星空の「星」とはソロキャンの事なのではないだろうか?なぜならソロとしての大人の日常で彼女達はちゃんと輝いているからです。どんな遠く離れていてもそれぞれが光り輝く「星」の様だと言う事です。
そうだとするとここで言う「プラネタリウム」 とは星と星を結ぶ繋がりの事なのではないだろうか? 実際の星空とプラネタリウムの星空の決定的な違いは星座として星 と星を線で繋げる事にあります。つまり「学生時代の日常」 が終わり「ソロキャン」として輝く彼女達が「再生」 しようとしているものは「繋がり」なのではないか? と言う事です。
学生時代の彼女達の繋がりって鳥かごの中にいるからこそ担保さていたものです。
と言う事は、では鳥かごから外に出てそれぞれが「星」となった彼女達の繋がりはもうなくなってしまうのか? と言う問題が確かにある訳です。
この問題に対して「プラネタリウム」つまり鳥かごの外にでて遠く離れていても、このドームから見たら星達はちゃんと星座として繋がっているよ。と言うメッセージが込められている訳です。
つまりこの鉄骨ドームは「 昔鳥かごの中で幸せに過ごしていた日常」の象徴であると同時に「 鳥かごから羽ばたいてそれぞれが輝く星として遠く離れていても繋 がっている」ものの象徴だったのではないか? と言う新しい解釈が可能であると言う訳です。
以上、なかなか面白い別解釈になったので記事にしてみた回でした。
最後にここから見えてくる個人的に感じたメッセージについて話して終わろうと思います。
星と星を繋ぐ為には星がちゃんと輝いていなくてはなりません。
つまり我々大人が「鳥かごにいたあの頃」 のように繋がっている為には個人個人がソロキャンパーとして輝き続けなければならない。
この残酷な資本主義社会に負けてはならない。
だから今日も負けずに歩き続けよう、磨き続けよう。
それは他者との「繋がり」を失わない為でもあるのだから。
映画ゆるキャン△感想、日常が終わったその先で
駆け込みで映画ゆるキャン△を見ました。
めちゃくちゃ面白かったです。
これは完全に「俺たち」の話です。我々くらいの世代が観たらまぁ共感できない人はいないんじゃないかなって言う内容でしたね。
しかもまさか原作を全部無視してここまで踏み込んだテーマを扱うとは正直思ってなかったので相当衝撃を受けました。
それ故に非常に価値の高い作品だと思います。
恐らくこの映画はけいおんに並び、何年も語り継がれるだろうなと思っています。
今回の記事は映画ゆるキャン△が扱ったテーマがどれくらい凄いものだったのかと言う個人的な感想を書いて行こうと思っています。
・大人になった少女達
彼女達は大人になった。作中では言及されてないけど犬山の妹すら免許持っているくらいだから最低でも10年後の世界。しまりんは名古屋、恵那は横浜、なでしこと大垣は東京、犬山は地元、それぞれが全然違う所で仕事をしている描写から物語が始まります。
これびっくりするくらいリアルな話で、大人になると大抵みんな地元を出る事になるあの感じ、わかる人にはわかりますよね。それで教師になる犬山だけが地元に残る。この感じあまりにも身に覚えがあり過ぎてぞっとするレベル
極めつけはしまりんが平日は名古屋で仕事をこなし土日は数時間かけて地元に帰ってキャンプ場を作っている。これに関しては今の自分と全く同じで笑ってしまった。
こう言う大人しまりんみたいな気合いの入った行動力って「すげーなお前」って言われがち(褒めてる2割、引いてる4割、馬鹿にしてる4割くらい)なんだけど別にやってる側はそこまで命削ってるつもりはなくて、むしろ仕事がきついからこそそうやって好きな事の為にエネルギーを使う事に救われている部分って結構あるんですよね。だからしまりんの気合の入った生活感には大人のリアルが凄く乗っていて共感できる。
こういう大人になるとわかる現実みたいなものの質感って日常系アニメの10年後の世界って言うこの映画ならではの設定でしか味わえないからそういう所を大事に描いているのは映画ゆるキャン△の物凄くいい所だよなーと思いました。
そしてこれって実はかなり凄い事をしていて、要するにこの映画は劇場版けいおんの更にその後の世界を描いた作品って事になるんですよね。
これが何故そんなにやばいのかと言う事を今回の記事では説明をして行こうと思っています。
・日常系キララアニメの願い
アニメゆるキャン△はけいおんを代表とするいわゆる日常系キララアニメの一つです。つまりなんてことない日常でしかないはずなんだけど後で振り返ってみれば輝かしい日常だったよねって言う感動があるジャンルです。
この系風の作品の中でも最も偉大なのがけいおんです。何故けいおんが偉大なのかと言うと「卒業」とちゃんと向き合った作品だからです。
なんてことない日常を真に輝かせる為には「終わり」がなくてはならないと言う事を示した訳です。
このテーマは劇場版ラブライブや100ワニなんかが引き継いでその価値を補強してくれていますね。日常とはその終わりを意識した時に初めて特別になる訳です。
映画けいおんは卒業と言う日常との別れを前にして何か特別な事をしようとするんだけど、やっぱりいつも通りでいいんじゃね?って言う結論を出してくる。こんな素晴らしい結論を大昔にけいおんが示した事によってキララアニメってもう不滅のジャンルなんですよね。
特別な事は起きなくていい、いつか来るかもしれない終わりを憂いながらそこにある日常を噛み締める。これが日常系キララアニメが今日まで永遠と焼き回しでも大人気コンテンツであり続ける理由です。つまりキララは「終わって欲しくないもの」を終わらせずに描き続けると言う視聴者の願いを叶える役割を担っていると言う訳です。
ここで話をひっくり返すようで申し訳ないのだけれど、私はこういう日常系アニメってあんまり好きじゃないんですよね。(え?)
いや何故かと言うとこの手の日常系アニメってよく言えば「カレンダーガール」だけど悪く言えば「エンドレスエイト」じゃないですか。
不滅の願いが込められた日常アニメってどこか現実から逃げているような気がしてしまうんですよね。だって私を含めて視聴者にとっての「振り返れば特別だった日常」ってもうとっくに終わってますよね?いつまでも「あの頃に~」とか言ってるのどうなん?って思いませんか?だから個人的にはやっぱり8月31日とは向き合わなければならないでしょってどうしても思ってしまう訳です。
もっと言うとアニメって観る人の「願い」で終わってはならないと思うんですよね。
アニメは観る人の「救い」でなければならない。
日常系キララアニメって「終わって欲しくないもの」を終わらせないだけの「願い」の作品が多くてなかなか終わりと向き合う作品がない。だからあまり好きじゃないと言う訳です。
そういう意味では実を言うとアニメゆるキャン△もそんなに好きじゃないです。
なぜならアニメゆるキャン△は上で書いた様な「終わってほしくない日常」を描くキララの中でもそれらを代表できる程の作品だからです。理由としてはまず時間経過が驚く程遅い、2期までやってまだ冬すら終わってないってかなり珍しいと思います。このペースなら4期が終わってもまだ1年たってないとかそういうレベルのペースなので永遠にアニメが作れそうですよね。
もう一つ作品のテーマに踏み込んだ話をすると、この永遠性は「富士山」に象徴されます。このアニメってどこに行っても最終的に目的となるのは富士山の景色なんですよね。つまりゆるキャン△における富士山は「ずっと変わらないもの」の象徴と言う役割で機能しています。そんな富士山を色々な角度から、あるいは色々はシチュエーションで鑑賞する彼女達の行いはゆるキャン△を視聴する我々とパラレルであると言う事です。だから彼女達が「ずっと変わらないもの」の象徴である富士山を見に行くのと同じ様に、視聴者もずっと変わらない彼女達を観ていたいって言う日常系キララアニメの願いがゆるキャン△には込められていると言う訳です。
さて、ここまで説明すれば映画ゆるキャン△が映画けいおんのその後の世界を描いた作品である事にどう言う意味があるのかが見えてきます。
映画けいおんでは終わりを自覚する事でなんてことない日常が特別であった事を理解する事ができる作品でした。では映画ゆるキャン△はどうなのかと言うと、かけがえのない日常が終わってしまった後の世界と向き合う「救い」の物語だと言う事です。
だからこの映画で大人になった彼女たちの生活の質感がリアルに描かれている事には大きな意味がある訳です。
以上の事を前提に話を見て行きましょう。
ばらばらになった彼女達は一緒にキャンプをする事もほとんどなくなり、それどころか最後に会ったのは4年前にみんなでキャンプをした時だと言う。必然的に彼女達の関係はグループチャットでそれぞれの生活を写真で共有するだけの関係へと変化します。
完全にアニメゆるキャン△の日常は終わりを告げている事がよくわかります。
しかしここで思い出さなければならないのは、彼女達の失われた日常(アニメ版ゆるキャン△)の中で、実は似たような事があったよね?と言う事です。
それはしまりん(なでしこ)の「ソロキャン」です。ソロキャンは孤独を楽しむもの。そしてそこで得た経験や撮った写真をグループチャットで皆に共有していました。
そう考えるとこうして大人になってそれぞれの場所からそれぞれの生活の様子を送り合っているこの状況は正に10年前にソロキャンをしていた時の彼女達と全く同じ構図である事がわかってきます。
つまり輝かしかった日常が終わって次のステージに進む、ひいては「大人になる」とは「ソロキャン」の事なのではないか?という事が見えてくる訳です。
アニメ版1期ではソロキャンを愛するしまりんがなでしこ達の影響を受けて少しずつみんなでキャンプに行く事の良さを知って行く話でした、そして2期では今度はなでしこがソロキャンに行ったりしまりんが改めてソロキャンの孤独を楽しんだりして、ソロキャンの良さにもフォーカスが当たっており、「グルキャンもソロキャンもどちらも違う良さがあって最高だよね。」と言うのがアニメ版の総括だった様に思います。
さて、そう考えると大人になった彼女達がソロキャンなのであれば、当然学生だったアニメ版の物語全てがグルキャンだった、と言う対比が成立します。
日常が終わった後の世界が「ソロキャン」に象徴され、輝かしかったあの頃の日常が「グルキャン」に象徴されるのだとすれば、私が求めていた「救い」が驚くほど鮮明に見えて来ます。
つまり映画ゆるキャン△は「学生だったあの頃もよかったけど、大人の孤独な感じもいいよね」と言う結論を最初から示している事になります。
だとすればもしあなたがアニメ版のゆるキャン△を観て、しまりんやなでしこのソロキャンを輝かしい日常の一部であると感じたのならば、輝かしい日常が終わってしまったその先にも「ソロキャン」と言う名の輝かしい日常が存在するのではないか?と言う可能性を示す「救い」の物語たり得ると言う訳です。
この結論の優れている点は、日常系キララアニメの中でこの結論に説得力を持たせる事が可能なのは恐らくゆるキャン△だけだろうという事です。ゆるキャン△でこれを扱う事に物凄く大きな価値があると言う訳です。
つまりここから先は「輝かしかった日常」のその先にある「新たな日常」が如何にして「もう一つの輝かしい日常」たり得るのかが示される必要があると言う事になります。
実際に物語を見て行きましょう。
ある日大垣はバラバラになってしまった野クルを集め、地元山梨の山奥の廃墟を使ってキャンプ場を作ろうと言い出します。こうして社会人5人によるキャンプ場作りが始まる訳です。
そしてリーダーに任命されたしまりんは、ここで作るキャンプ場のテーマは「再生」にしようと言います。
つまり廃墟となった場所が「輝かしかった今はなき日常」に象徴され、これから作るキャンプ場が「その先にある新たな日常」に象徴されると言う事です。これを「再生」つまり失った日常を取り戻そう!と言う解釈ができる訳です。
ここで注目すべきポイントは、このキャンプ場作りは解像度の高い現実的な大人の生活と常に隣り合わせで描かれていると言う事です。
皆仕事をしながらやる関係上、日によって空いている人がまちまちなので、犬山が5人のシフトを管理するとか言う学生時代ではあり得ない自体が発生しているし、運よく仕事場から許可をもらってキャンプ場作りに明け暮れていたしまりんが、後になって実は先輩が陰でめちゃくちゃフォローしていたお陰で成り立っていただけだった事を知って、その後毎日終電まで残業する事になったりする。
ここからわかる事は、大人になってから取り戻す輝かしい日常は無償ではないと言う事です。
思えば学生時代の輝かしい日常は受動的に成立しており、彼女達がその日常の為に敢えて何かをする必要はなく、無自覚に存在可能です。これに対して大人になってから取り戻す日常とは能動的に勝ち取らなければならず、自覚的にしか存在できないと言う違いがあります。
この違いを象徴するのはキャンプ場を作ろうとしている廃墟に存在する使い道のなさそうなバカでかい鉄骨です。
この廃墟は夜になると満点の星空が広がっており、それをドーム状の鉄骨の中から見上げるとまるでプラネタリウムにいる様な景色が見えて綺麗だと犬山が言い出します。
このシーン、言ってる事やばくて笑ってしまった。そもそもプラネタリウムって人工的に作られた星の様な光を鑑賞する為の装置なので、プラネタリウムの光を見て「星みたい」と言う事は普通だとしても、星を見て「プラネタリウムみたい」って言うのはどう考えてもおかしい。
これが意味するのは大人になってから取り戻す輝かしい日常とは人工的に作られた日常なのだと言う事です。学生時代の失われた輝かしい日常とはどこからでも見る事のできる本物の星空な訳です。これに対して大人になってから取り戻す日常とはプラネタリウムで見る星の様に作られたものである事を示している訳です。
そしてこの鉄骨にはもう一つ象徴しているものがある事にも注目しなければなりません。
元々この鉄骨は動物園的な用途で巨大な鳥かごとして機能するはずだったらしいです。しかしいざ運用してみたら檻の網目がデカすぎて鳥が逃げてしまいすぐに使い物にならず廃墟化したと言うバカ話がバックボーンになっています。
この鉄骨は見かけだけ見ると「鳥かご」だけどよく考えると全く機能していなかった訳です。
この「鳥かご」が象徴しているものって「大人になったしまりん達を取り巻く環境」の事だと思うんですよね。
なぜ我々大人は学生時代の輝かしい日常を失ったのかと言うと「社会」と言う名の鳥かごの中で自由を奪われたからです。でもよく考えてみればその社会ってこの鉄骨と同じように見かけだけの鳥かごで出ようと思えばいつでも出られるし戻ってこられるって言うめちゃくちゃ自由な鳥かごなんですよね。
だからこの鉄骨って「作られた物の様な星空が見える場所」であるのと同時に「不自由に見えて実は物凄く自由な場所」でもある訳です。
そう考えると彼女達を取り巻く環境って実はそんなに不自由なものではない事が示されている訳です。
で本編ではこの鉄骨には使い道がないので撤去する方向で大垣が話を進めそうになるんですけど、しまりんがこれに待ったをかけます。しまりんはこの鉄骨を「撤去せずにそのまま残そう」と提案します。
つまり彼女達が輝かしい日常を取り戻す為に「社会」は切り離さない事を示しています。これこそが大人になって取り戻す輝かしい日常には必要なのです。
しかし彼女達はここから最後の障壁にぶつかります。
キャンプ場として進めていた廃墟でなんと縄文時代の土器の欠片が見つかると言う事件が発生します。そして何の価値もなかったはずの廃墟は縄文土器の展示場になる事が市の判断によって決定しました。これによってキャンプ場作りは頓挫してしまいます。
そしてこの後畳みかける様に、犬山の職場が廃校になってその学校との別れを憂うシーンがあり、ちくわが実は老衰で死にかけていて命がそれ程長くないと言う話が出て来る。
これが何を意味しているかと言うと、じゃあ大人になって輝かしい日常を取り戻したのはいいとして、その日常の終わり、つまり「死」とどう向き合うつもりなの?と言う問題が残っている事までちゃんと描ききろうとしていると言う事がわかってきます。
どういう事かと言うと、確かに学生時代の輝かしい日常の終わりって単にもうあの頃には戻れないんだ・・・と言う呪いを抱えて生きて行く事になるだけで別に死ぬ訳ではありません。しかし大人の日常の「終わり」とは他人、あるいは自分の死によって発生する終わりです。
だから大人の輝かしい日常の終わりは、けいおんが示した様な「特別な事はしなくていい、なぜならそれは振り返った時に特別なものになっているのだから」と言う解答とは別解答でなければならないと言う訳です。
こうなってくると縄文土器が何を示しているのかが見えて来ます。要するに縄文土器とは「終わってしまった時代を象徴する、形ある物」な訳です。
縄文時代を生きていた人の生活を何故現代の人が知っているのかと言うと全部終わってしまっているんだけど縄文土器って言う形ある物が今も残っているからです。
ここでポイントになるのは死にかけで「終わり」が近いちくわがその土器を見つけて来る所です。
つまりこの映画が最後に示すメッセージは「大人の日常の終わり」ひいては「死」と向き合う為に必要なのは「形ある何かを残す」と言う事です。
それはある人にとっては名誉かもしれないし、ある人にとっては子供かもしれない。はたまたある人にとっては作品や記事かもしれないと言う事です。
確かに言われてみれば子供の頃って終わりに向かう為になにかを残そうって言う意識はそんなに無いけど、大人になると急に「なにも残せていない自分」に焦りを感じ始めてなにかをしようとするものだというのはわかる気がします。
これは漫画とかアニメとか映画を作る様な人は共通して同じ意識で作っている側面は絶対あるよなと言う事はこういう記事を書いていたりyoutubeを始めてみたりして思う事な訳です。
多分この意識ってどんな人間にも当てはまるだろうし、これこそが「死」と向き合う為にできる事の本質なのだろうなと言うのは物凄く説得力があると思います。
そうなって来ると「キャンプ場を作る」とはなんだったのか?と言う話に帰って来る。
大人になった私達の輝かしい日常とは、単なる思い出作りではなく「何かを残す」と言う事なのではないだろうか?
では映画の続きを見て行こう、頓挫したキャンプ場作りは大垣の頑張りによって「遺跡の博物館とキャンプ場が融合した娯楽施設」と言う企画が市に承認される。こうして彼女達のキャンプ場作りはなんとか完遂した。そして最後にこのキャンプ場の開店初日の1日を描いて幕を閉じると言う感じの内容でした。
ここでポイントとなるのはキャンプ場を利用するのは作った彼女達ではなく、家族や友達と言う事です。そして実はここでひとつ小さな事件が起きていて、キャンプ場への道が難し過ぎて誰もその場所にたどり着けなかったのです。その為急遽彼女達は利用者を迎えに行き、キャンプ場まで導いてあげると言う手順を踏む事になるんですよね。
つまり「大人の輝かしい日常」とは、学生時代の様な自らが夢中で楽しむと言うものではなく、「人を導いて感謝される事」なのではないだろうか?
要するにこの映画の最終的なメッセージは「他者から承認を本質とした日常であれ!」だったのではないかと私は考えています。
これが大人になった私たちの輝かしい日常は「何かを残す」と言う事なのだ、と言う話にも繋がっている訳です。
しかもこれしまりんがバイクで迎えに行くんですけど、なぜか大人になってから使っているバカでかいバイクのエンジンが動かなくなって昔の原付で迎えに行くんですよね。
「何かを残す」と言う事をする時に社会を切り離さないって言う話を上でしました。でもその後に「人を導く」って言う所まで行くと童心に戻ることが大事って事を示してるのではないだろうか?
つまり大人になって得られる社会とか孤独って人を導く時には必要なくて、ちゃんと童心で目線を合わせた方がいいと言う事です。
例えば自作でゲーム作ったとして、そのゲームの制作には大人にしかわからない難しい問題が山積みな訳です。でもいざ完成したらそんな大人にしかわからない事は置いといてそのゲームの面白さをワクワク説明してくれるかわいいキャラクターがいた方が絶対いいじゃないですか。
「作る時」は大人、「導く時」は童心に帰る。
これこそが俺たち大人の輝かしい日常のあり方なのではないか?と言う事です。
流石にここまでちゃんと「輝かしい日常終わってしまった世界から始める新たな輝かしい日常」と向き合う映画だったとは見る前は思いもしなかったのでめちゃくちゃびっくりしたと言う感想でした。
私は日常系キララアニメでありながら「願い」だけで終わらず最後まで「救い」であろうとするこの映画の姿勢に敬意を称したい。
そして我々はこの映画を受けて、今後の人生について考える必要があるだろう。
ハケンアニメ!感想、アニメとハケン、あるいは魔法と現実のジレンマ
ハケンアニメ、めちゃくちゃ面白かった。
と言うかまた泣き崩れて劇場に誰もいなくなるまで動けなくなってしまった…
せっかく持って行ったノートも最初の1時間くらいしかメモできなかったしなんなら涙で字が全然読めなくなってしまった。
映画館のスタッフにはまたしても多大なご迷惑をお掛けした事をお詫び申し上げます。
これはオススメできる作品と言うよりは絶対に見なければならない必修作品であると言う方が正しいです。
と言うのもこの映画を見て真っ先に思い浮かぶ作品がポンポさんだからです。
映画大好きポンポさん大好きぴんぷくさん的には完全に必修で、この映画の解答を見れた事は俺の人生の大きな一区切りとなった。
もし劇場で見ていなかったら一生後悔する所でした。危な過ぎる。ナイス幽霊。
では何故この作品が必修だったのかについてまずは話していこうと思います。
・「アニメは面白ければ売れるのか?」
この問題にポンポさんは向き合わなかったと言うのが非常に大きいです。ポンポさんでは「何故映画を作るのか?」と言う部分のみにフォーカスが当たっていた為映画を売れる様に作る為にはどうすればいいのか?と言う議論をすっ飛ばしたからです。
ユキシロが言うように「アニメは面白ければ売れると言うのはただの理想論」であり、現実は「視聴者に届けるとは、100方法を打って1届くかどうか」が紛れもない真実です。この問題に向き合う為にはアニメが面白いかどうか以外にやらなければならない事が無限にあり、それを重ねる毎にその知名度と引き換えに確実にアニメは呪われて行く訳です。
では何故こんな事になってしまうのでしょうか?
答えは明らかで「アニメ」と「商売」の相性が最悪も最悪だからです。
「アニメ」の本質は「客を信じること」です。アンチな客を振り切ってでもやりたい事を貫くことが重要です。 一方、「商売」の本質は「客を信じないこと」です。どんな客をも想定して相手に帳尻を合わせることが重要です。
アニメと商売の相性が悪い理由は他にも
「クオリティ」と「効率」だったり
「やり甲斐」と「労働力」だったりと
上げ始めればキリがないことはこの映画を見ていれば嫌と言うほどよくわかります。
この2つは常に攻めぎ合い、お互いの正論に殴られながら共倒れして行く関係にあるのです。
そしてこの「アニメ」と「商売」の相性が悪いと言う真実は何もこれに限った話ではありません。
我々の人生そのものと全く同じです。
アニメを作りたいとは言わないまでも、人にはやりたい事が沢山あるはずです。しかし現代の資本主義社会では商売なしに生きて行く事は絶対に不可能です。
この2つの攻めぎ合いは我々が一生を懸けて向き合い続けなければならない人生と言う名のアニメ制作なのです。
・「商売」に絶望する子供達
ハケンアニメではこの「アニメと商売のジレンマ」とも呼べる構図を「魔法」と「現実」と言う構図に姿を変えて現れています。
「魔法なんてないんだよ」と言う子供時代のヒトミと「アニメなんて全部嘘じゃん」と言うタイヨウ君、この二人が抱えている問題は全く同じです。腐った大人達が見せる「現実」と言う名の商売に汚れた見せかけの魔法は彼らの魔法のステッキを折ってしまったのだ。こうして新しい腐った大人がまた一人、また一人と増えて行く。これがこの世界の理なのだろう。なぜなら一般的に「大人になる」とは「魔法のステッキを折り、商売とも呼べる現実を生きる事」に他ならないのだから。
しかしそんな絶望から子供達を、腐った大人達を救おうとする者がいた。それがオウジです。
オウジは「現実逃避するのではなく、この現実世界を生き抜く為の力として、俺の作品を必要としてくれるなら、そいつは俺の兄弟だ」と言う。
かくして「オウジのアニメ」と言う名の汚れなき魔法はヒトミ届き、現実に絶望した一人の少女を救った訳です。
しかしこの物語はここから始まる、魔法信じたヒトミはオウジと同じ道を目指すもすぐに壁にぶち当たります。それがユキシロです。ヒトミが徹底的にアニメ側(魔法側)なのに対してユキシロは真っ向から商売側(現実側)です。
彼らの対立構造は見るに耐えない程に殴り合い、共倒れしてしまうのです。この無限ループが「アニメと商売のジレンマ」の本質と言う訳です。
じゃあどうしろって言うんだよ…
・この世界に魔法はあるのか?
一方その頃オウジはと言うと、ヒトミに魔法を与えた様にまた人々に魔法を与えているのかと思えばそうではありませんでした。オウジもまた「魔法と現実のジレンマ」にぶつかっていました。
なんと天才監督オウジとは見せかけに過ぎなかったのです。ハワイと言う名の優雅な魔法など実はどこにもなく、そこにはドンキホーテと言う名のやっすい現実が建っていたのだった。
オウジの魔法に嘘はなかった、しかしオウジの魔法は偽物だったのです。
オウジはインスタもTwitterもチェックするし、プレッシャーで押し潰されそうになる様な繊細な奴だったのです。
豪華でキラッキラの変身バンクは魔法なんかでできていない、その裏にあるのは血反吐を吐きながらアニメを作るオウジの狂気です。
ここでハッキリしたのは魔法で現実を100%打ち消す事は不可能だったと言う事です。
だからヒトミはユキシロのやり方に屈するし、オウジは主人公を殺す事はできないのです。
残念ながら魔法には限界があると言う事実は火を見るより明らかだろう。
これがハケンアニメ最大の主題であり我々が絶対に乗り越えなくてはならない問題と言う事です。
なぜならアニメが商売に飼い殺されていると言う事実は我々の人生と同じだからです。
会社に操り人形にされ、やりたい事もできずに、やりたくもない仕事を毎日こなし続ける我々の人生は本当にこのままでいいのだろうか?
ならばどうすればいいのだろうか?
ここからその回答編がはじまります。
・「現実」は、「商売」は、敵なのか?
最初のヒントはスタンプラリーおじさんです。ここでのスタンプラリーおじさんの役回りは完全に「現実」(商売)サイドであり、なんなら「リア充」と言い切られて敵視されてしまう程露骨に「アニメ」サイドが妥当すべき存在です。しかしそんな彼の「商売」の事しか考えていないかに見えた行動は実は資本主義の為ではなくアニメの為に一生懸命考えた行動だった事が明らかになります。
ここは明確な転換点で、今まで100%対立構造となっていた「アニメ」と「商売」が初めて対話した瞬間だった訳です。
これが殴り合って共倒れするだけだったはずの関係性の突破口となります。
「私達って誰と戦ってるのかな?」
これは劇中アニメのセリフです。
なるほど確かに、今まで敵だと思っていた「商売」が「アニメ」の為に行動してくれているのだとしたら。
敵ではないのだとしたら。
私達の敵とは一体誰だったのだろうか?
そこからは大きな壁が突然なくなったかの様に話が進みます。
客寄せ声優のタカノは夜な夜な練習してる上に「日本一の客寄せ声優になってやる」とか開き直るし、伝説の進行はアニメーターに土下座するのだ。
ここまで見れば誰でもわかる。
この土下座は資本主義の為の土下座なんかじゃない、「商売」為でもない、
魔法を子供に届けたいヒトミの為の、
血反吐を吐いてアニメを作るオウジの為の、
本気の土下座なんだ。
ならば「アニメ」もそれに応えなければなるまい、徹夜がなんだ?やり甲斐摂取がどうした?
今立ち上がらなきゃ、今こそ力を合わせなきゃ、俺たちは一生平行線なんだ。
これが「俺たちが伝説を壊す訳には行かないんだ。」
と言うセリフに隠された本音です。
こうして「商売」が「アニメ」に寄り添った事によって「アニメ」もまた「商売」に寄り添う準備が整った訳です。
当然こうなってはオウジも「商売」の為に何か寄り添わなくてはなりません。だからオウジは主人公を殺す事を辞めた訳です。それでも自分が納得できる最高の形で最終話を完成させたと言う訳です。
・本当の敵は誰だったのか?
そしてヒトミはキレます。
なぜならもう「アニメ」と「商売」の間に壁なんてないのだから。お互いがいい物を作る為に自分の仕事をする。その為にお互いが譲歩し合い、寄り添う。
ここにまだ「アニメ」と「商売」に壁を作っているじじいが2人いる。今ならわかる。こいつらこそが悪だ。だからキレた。だから許せなかった。
なぜならそれは…昨日までの私なのだから。
ならば全てが反転する。
ユキシロは最初から敵なんかじゃなかったのだ。何故なら作品を呪って打ち出した100の広告は、1つだけちゃんとタイヨウ君に届いていたのだから。
そして何故ハケンアニメと言うタイトルだったのかも今ならわかる。「アニメ」には「商売」が必要なのだ。売れなくてもやりたい事がやれればそれでいいなんて嘘だ、続かなければならない。
何故ならこれは我々の人生でもあるのだから。どれだけやりたい事をやる人生を送ろうともお金だけは稼がなければ生きてはいけない。やりたくない事もやらなければならない。しかしやりたい事をやる上でついて回るやりたくない事を敵視する態度は間違いだ。
それを支えるもの達は間違っても敵などではない事を絶対に忘れてはならない。「アニメ」は「ハケン」でなくてはならない理由があるのだ。
倒すべきは「現実」でも「商売」でもなかった。ジレンマなんて最初からなかったんだ。
本当の敵は
こんな事で意地になって本質を見ていなかった
私の事だったんだ。
ワッチャプリマジ!1話感想、マジ(魔法)とマジ(本気)の物語
プリマジ1話を見ました。
かなり面白いことをやっているなと思います。
今後の展開にも期待できる点が数多くあり、今年の注目の1タイトルになると思っているので、個人的に注目したいポイントと感想を書こうと思います。
プリシリーズ的には魔法を扱うのは初めての試みでありライバルである同業に魔法をメインに扱うプリキュアシリーズが存在する事から、プリシリーズが描く魔法の解釈がプリキュアと比べてどのように扱われるのかに期待が高まります。
最近のプリシリーズは既に存在する女児アニメがやっている事に主軸を被せて、プリシリーズなりの独自のテーマを乗せて再解釈すると言う手法を取っている傾向があります。
直近だとキラッとプリチャンはアイカツが描く「憧れのバトン」と言う主軸にプリシリーズの描く友達や多様性と言ったテーマを乗せて同じなようで全く異なる作品を見せてくれました。そして今回は「魔法」を扱うと言う事なので概ねそういう事だと思っています。
・差別造語「チュッピ」について
ここで注目したいのはプリマジではみゃむと言うキャラクターが「チュッピ」とか言う差別表現の造語を連呼しながら颯爽と現れる所です。普通に考えれば「チュッピ」と言う表現は明らかにおかしい。プリキュアを含む魔法を扱う大抵の作品で言えることですが「プリキュア」や「魔法少女」の様に魔法を使える者にはそれを示す呼び方が存在します。これは特別な存在であるが故に特有の呼称が必要だからそう呼ばれている訳ですが、当然普通は魔法を使えないのでそれに対する呼び名を設定する必要はありません。精々「人間」や「普通の人」程度の表現になるのが一般的です。
しかしプリマジでは魔法を使えない人の事をわざわざ「チュッピ」と呼びます。これはハリーポッターシリーズの「マグル」と言う表現と同じであり、これは作中ではかなり見下した表現として扱われている事からもわかる様にあまり褒められた表現とは言いがたいです。
しかも事プリシリーズの様な朝に放送する女児向けのコンテンツなら尚更このような教育上いかがなものかと思われる表現は避けるのが普通に考えて無難です。
そんな事情には目もくれず「チュッピ」とか言う差別表現をあえて扱う今回のプリシリーズのやり方はかなり挑戦的と言えます。明確にプリキュアシリーズ異なる点でありここにプリマジの理念が隠れ潜んでいる気がしてなりません。
「チュッピ」と言う言葉が差別表現だと言う見解はそれだけ聞くと流石に過敏になっているだけである様な気もしますが本編を見るとあまり気のせいとは思えません。
「チュッピにはマジがないもんな」
「チュッピはこういうのが好きなんだろ?」
みゃむのチュッピに対する見下し方はどう養護しても差別的と言わざるを得ません。
それでは何故このような表現が前面に出て来ているのでしょうか?
個人的な考えですが、これは主人公日比野まつりが自分の夢と現実に向き合う物語だからだと思っています。
まつりはトッププリマジスタのジェニファー・純恋・ソルに憧れるも自分に自信が持てない女の子です。まつりは自信が持てないが故にプロフィールの夢の欄を空白にしています。
そんなまつりを見て「やりたいなら、やれよ」と言い放つみゃむの容赦なさは正にマナマナとチュッピの間にある隔たりを物語っており、まつりがただのチュッピであると言う現実を突きつける訳です。
このようにチュッピと言う言葉は魔法と言う題材を扱う上で「厳しい現実」と言う側面を炙り出す作用があり、プリマジで扱われる魔法は現実の裏側と言う役割で駆動している事が伺えます。
こうして見るとプリマジってもしかして不穏な作品なのか?みたいに思ってしまいそうですがそうではありません。むしろここからがプリマジのテーマです。
・マジ(魔法)はなくてもマジ(本気)はある
ではチュッピであるまつりが突き付けられた厳しい現実と向き合う為にはどうすればいいのでしょうか?これに対する答えがマジ(本気)です。
自信が持てずに夢の欄を空白にし続けていたまつりはついにペンを取ります。そこからのまつりにもう迷いはなく完全にマジ(本気)です。ではまつりの身に一体何が起きたのでしょうか?
このきっかけとなったのはみゃむから突き付けられた現実です。まつりがマジ(真剣)になれたのはチュッピであるまつりにはマジ(魔法)がないと言う残酷な現実を受け入れる事ができたからです。このマジ(魔法)がないと言う現実を受け入れると言う開き直りこそがマジ(本気)になる為の条件であると言う事が描かれています。
ここで注目すべきなのはまつりが夢の欄に書いた内容が「かっこいい自分になる」と言う事です。そもそもまつりが夢の欄を空白していた理由は夢がないからではありません。その夢を書けるほど自分に自信がないからです。と言う事はこの「かっこいい自分でいたい」と言う夢は本来まつりが書きたくても書けなかった夢ではありません。現実を受け入れた上でのマジで目指す現実的な落とし所まで夢のランクを下げている事が最大のポイントです。
魔法と言う題材を使って現実と向き合うと言う一見矛盾した素晴らしい1話です。
プリマジはマジ(魔法)とマジ(本気)つまり魔法と現実の物語なのです。
・何故ワッチャなのか?
ここまでくるとあの意味不明なタイトル、「ワッチャ」の意味が見えてきます。
プリマジはマジ(魔法)とマジ(本気)の物語です。ここで注目すべきはプリマジのテーマ曲である「マジ・ワッチャパレード」です。「マジワッチャ」は「マジ」と「交わっちゃう」がかかっています。つまりプリマジはマジとマジが交わった時に始まる物語だと言う事です。
・謎の合言葉「マナマナマジパチュッピ」
更に言うとこの謎の合言葉の意味ももうわかるはずです。
プリマジはマナマナ(魔法)とチュッピ(現実)の物語です。間に入る「マジパ」はマジ(魔法と真剣)のパートナーの略だと言う予想はすぐに立ちます。
1話時点ではまつり(現実サイド)が魔法に大きく影響を受けて成長する事が描かれました。
今後はみゃむ(魔法サイド)がチュッピと言う現実にどの様な影響を受けてどのような成長を描いてくれるのかに期待しています。