ぴんぷくの限界オタク日記

オタク向け作品の感想やメモ

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト感想、資本主義システムの再生産

ついに少女歌劇レヴュースタァライトが完結しました。

映画を含め作品として非常に面白かったです。

こういうハイカロリーで何回も見たくなるアニメとか映画って最近はあまり流行らないのかな?と少し寂しく思っていたので久しぶりにこの手の作品が堪能できて非常に満足度が高いです。

今回の記事はそんなレヴュースタァライトの作品全体を通した感想です。

まだ1回しか見てない上で取り急ぎ書いたのでセリフとか解釈とか割と怪しい所は多々ありますので正確な情報を持っている方は指摘して頂けると助かります。直すので。

是非お待ちしております。(円盤が出たら買うと思います。)

 

レヴュースタァライトは9人の舞台少女によるレヴューと煌めきと再生産の物語です。

物語自体はかなり小プロットだがその分レヴューによるミュージカル的な表現によって解像度を高めていくスタンスをとっている点が非常に特徴的と言えます。

このミュージカル的表現のメッセージ制が大変面白く、多角的な見方がいかようにも出来る為解釈の余地が無数にあり、見る人によって感じる事や語れる事が千差万別です。

この記事はレヴュースタァライトと言う作品が何を伝えたかったのかについての個人的な解釈を好き勝手まとめたメモみたいなものだと思って頂ければ幸いです。

 

 

①  世界を支配する資本主義システム

まずレヴュースタァライトを語る上で避けては通れない「資本主義システム」の話からしましょう。

資本主義

資本が主体となる政治体制で、それぞれが利益を追求し続ける事で競合が発生し、競争が経済を発展させる在り方。勝つ者と負ける者が現れ社会格差が生まれやすい。

  要するに闘争社会の事です。世界中の人間全員が平等な水準で生活する事は不可能である事が自明なのは「力なき者は力ある者に食われる」と言う当たり前の資本主義原則によって世界経済が回っているからに他なりません。

そしてこの資本主義システムは単なる経済のシステムのみに留まりません。

ゲームやスポーツなど世の中のありとあらゆる物は資本主義システムに支配されています。

もちろん舞台少女のオーディションも例外ではありません。

この物語で彼女たちに降りかかる最初の試練は何といってもこの資本主義システムの呪いです。

 

(キリン)

レヴュー、それは歌とダンスが織りなす魅惑の舞台。

最も煌めいたレヴューを魅せてくれた方にはトップスタァへの道が開かれるでしょう。

トップスタァを目指して、歌って、踊って、奪い合いましょう。

 

キリンからの招待により、トップスタァを決めるオーディションが始まります。

しかしこのオーディションは1番を決める為だけのもので、蓋を開けてみれば負けた残りの8人の煌めきが奪われると言うとんでもない争奪戦です。煌めきが奪われるリスクを説明せずに、願いが叶うと言うメリットのみが提示されている点はまどマギのきゅうべぇのそれと寸分違わない詐欺まがいのオーディションである事は言うまでもありません。

 

実際このリスクは話が進むにつれて徐々に明らかになり、その問題から目を背けられなくなっていきます。これこそが現在我々を含めた世界を支配している資本主義システムの呪いと言う事です。

 

「トップを目指す」ということは直ちに「他人からトップの座を奪い取る」という行いであると共に「トップの座を奪われる」という事でもある訳です。

我々が上を目指し続ける限りにおいて闘争は絶対に避けては通れず、誰かがトップになった暁にはその下に必ず敗者という名の犠牲を大量に生むことになってしまいます。

レヴュースタァライトではこの犠牲者に対する問題意識が非常に色濃く表現されており、資本主義システムに対してかなり批判的です。

そもそも「戯曲スタァライト」という演目のストーリーが既に残酷極まりない。

 

また繰り返すのね、絶望の輪廻を

二人の夢は叶わないのよ

 

なぜ二人の夢は叶わないのか?

星を摘んでクレールが記憶を取り戻したと同時にフローラはその星の光に目を焼かれて塔から落ちる。この「二人の夢はかなわないのよ」という現実がまさに資本主義システム最大の問題点であり、彼女たちを絶望の輪廻へと誘い引き裂きます。

 

小さな星を摘んだなら、あなたは小さな幸せを手に入れる

大きな星を摘んだなら、あなたは大きな富を手に入れる

その両方を摘んだなら、あなたは永遠の願いを手に入れる

 

「戯曲スタァライト」でおなじみのこのセリフは資本主義システムにおける非常に当たり前の事を言っています。「小さな星を摘んだなら、あなたは小さな幸せを手に入れる」つまり皆がもっと大きな星を掴もうとしている中で、小さな星しか掴めない様ではそれ相応の幸せしか手に入らない。そしてそれらの星を両方とも摘んで一人占めすることもできてしまうという事です。これが資本主義システムの原則であり、隠された暴力性です。

 

この暴力性のわかり辛さは振り返ってみれば「最も煌めいたレヴューを魅せてくれた方にはトップスタァへの道が開かれるでしょう。」とキリンがメリットだけを提示した詐欺まがいの文言と全く同じです。

 

このようにレヴュースタァライトでは資本主義システムのデメリットを浮き彫りにするような表現が各地に散りばめられており、資本主義システムが生む犠牲に対してかなり問題視している事が伺えます。各回での主役が勝者側ではなく敗者側になりやすいのもこの為だと言えます。

 

②資本主義システムの否定、「停滞」

そして迎える1回目のロンド(アニメで言うと第7話)ではついにこの残酷な資本主義システムからの脱却が試みられる事になります。

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(バナナ)

私の「再演」の中にいれば何も怖くない

成長することも大人になることもない

自分を追い込む苦しみ、新しいものに挑む辛さ

傷ついて道をあきらめる悲しみからみんなを守ってあげる

 

バナナは資本主義システムの犠牲者を出さない為のカウンターとして「再演」、つまり犠牲者が出る前にリセットボタンを押し続けてループする、と言う手段を選ぶことになります。資本主義システムをループの中に閉じ込めてしまう事によって無限に上を目指す資本主義の「停滞」に成功します。

 

しかしこの方法はその場しのぎの気休めに過ぎないことを理解しなくてはなりません。なぜなら「犠牲者が出る前にリセットボタンを押す」と言う事は直ちに「誰も願いを叶えられない」事と同義だからです。

そもそも犠牲を受け入れて、それでもなお資本主義システムに主体的に参加している人からすると「犠牲を無効にする為に願いを諦める」などと言う選択肢を取らされるなど最悪だ。それこそ資本主義システムを受け入れた覚悟そのものまで無力化してしまっているので、そういう意味で別の犠牲者が出ていることになります。

つまり「再演」による資本主義システムの無効化は、全体の理想の形などでは全くなく、バナナの価値観に基づいた個人的な理想を他者に押し付けているだけに過ぎない。さながらエヴァンゲリオンの「人類補完計画」となんら変わらない傲慢なやり方だという事です。

  

しかし実際にはこの「別の意味で犠牲者が出る」という問題は、バナナが頂点に君臨し続ける限りにおいてはなんの問題にもなりません。なぜならループの事実が隠蔽できてしまうからです。バナナだけが理想を叶えて、他の舞台少女達の覚悟と理想が蔑ろにされていると言う事実に誰も気付く事ができません。犠牲者達が自らの犠牲を認識できない事によって一つの最強のソリューションたり得ているという訳です。

 

予め定められた(運命の)レールの上で「第99回聖翔祭」という舞台を演じ続けるバナナの姿はまさに「運命の舞台」という名に相応しい。ここまで徹底すればバナナ次第で本当に犠牲者0で永遠に資本主義システムの呪いを回避することができます。

 

しかしループ外からの訪問者、神楽ひかりの出現によってこの「再演」はいとも簡単に崩れ去ります。なぜならバナナは「停滞」を望むが故に成長する事を諦めてしまっているからです。繰り返す世界の中でバナナはトップですがループに異物が混入した瞬間に力関係の逆転が見込まれてしまいます。それはばなな以外の舞台少女達はバナナの「停滞」と言う選択に同意していない状態で付き合わされているからにほかなりません。

 

異物の有無とは関係なく停滞を望むバナナにはとって、異物がプラスに働くことはありません。しかしバナナ以外の舞台少女は依然として資本主義システムの中にいると思い込んでいる訳ですから、異物の影響を受けて成長が見込めます。最終的にこの異物によって閉じ込めたはずのループの中で加速してしまった(停滞に失敗した)資本主義システムに太刀打ちできずバナナは敗北します。

停滞によって資本主義システムを閉じ込めると言うやり方の脆弱性が露呈してしまった当然の結果と言えます。

 

(華恋)

ノンノンだよバナナ!

舞台少女は日々進化中

同じ私たちも同じ舞台もない

どんな舞台もその一瞬で燃え尽きるから

愛おしくて、かけがえがなくて

価値があるの!

 

(バナナ)

守りたかったの、みんなを

ひかりちゃんが来て、かれんちゃんが変わって、みんなもどんどん変わって、私の再演が否定されていくみたいで怖かった。

私、間違ってたのかな?

 

 

この回では舞台少女の「煌めきとは何か?」と言う煌めきの再定義が行われたと言っていいでしょう。

 

(キリン)

奇跡と煌めきの融合が起こす化学反応

一瞬の燃焼、誰にも予測できない運命の舞台

私はそれが見たいのです。

 

煌めきの本質は「一瞬」です。そしてそれは誰も見た事のない予測不能である事にこそ価値があると言う事です。バナナの再演にはそれがなかったと言う訳ですね。 

 少し脱線しました、話を戻します。

 

③資本主義システムの否定2、「罪」と「罰」

残念ながら資本主義システムからの脱却の試みとして「停滞」は失敗に終わりました。そしてその後、資本主義システムの犠牲と向き合う役割はひかりが引き継ぐ事になります。 

 

(ひかり)

あの星を掴もうとして、煌めきを失くした

掴めなかったから、今度は奪おうとした

愚かで罪深い私の運命の舞台

 

バナナは資本主義システムそのものを停滞させてしまおうと言うやり方を取ったのに対して、ひかりは「トップに立つ事を罪として、その罰を受ける」と言う手段を取ります。

本来の資本主義システムは闘争の果てに他人から奪う事になったとしても「負けたやつが悪い」と言う原則に則りあらゆる倫理的問題を無効にしています。

だからひかりはこの原則を破壊して社会主義的な解決で資本主義システムの打倒を試みます。

どういう事かと言うと、例えば業界で1位を取れば2位以下の客を大量に奪う事ができます。しかしだからと言って「1位は2位以下の客を奪った罪を償わなければならない、2位以下に賠償すべき」などと言う暴論が裁判で成立しないのは我々の住む世界が資本主義社会だからに他なりません。

しかしひかりはこう言う資本主義システムからしたら暴論に近い思想をトップに立った上で自らが受ける事によって資本主義システムその物を破壊しようと言う訳です。

これならそもそも闘争が発生しません。闘争さえ無くしてしまえば犠牲者も出ません。

一応資本主義システムの犠牲への解答にはなり得ていると言えるでしょう。

 

しかしこれもすぐさま打開されてしまいます。

(華恋)

ひかりちゃんが罪深いって言うなら

オーディションに参加した私達全員同罪だよ!

奪っていいよ、私の全部

だからひかりちゃんを私に、全部頂戴!

 

ここで華恋は「罪に問われるべきは1位ではなく全員である。」と言う主張を軸に闘争社会の必然性を肯定します。当然これでひかりの思想は看破できます。

ここで重要なのはこの思想がひかりの思想に対する解答である事ではなく、資本主義システムへの解答でもあると言う事です。

闘争に参加した段階で全員が罰を受けるべき対象である事を参加者が自覚したのであればその中で出る犠牲は資本主義システムによる暴力的な犠牲ではありません。

正当な手順が踏まれた「罰」と言うニュアンスに「犠牲」を変換してしまう事ができる訳です。

しかし「犠牲」のニュアンスが「罰」に変わった所で敗者側が救われる訳ではないので本質的な解決になっているかはかなり怪しいです。

そこで重要なのはここからです。

ひかりに敗北した華恋はそのまま地に落ちて行きます。

しかし華恋はこのままでは終わりません。

 

(華恋)

ノンノンだよ

スタァライトは必ず別れる悲劇

でもそうじゃなかった結末もあるはず

もう一度立ち上がって塔を上ったフローラもいたはず

 

舞台少女は何度だって立ち上がる

「アタシ再生産」

 

ここで出て来るソリューションが「再生産」です。

資本主義システムの暴力的な犠牲を自らの「罪」であると受け入れる事で古い自分を燃焼し再出発すると言う解答が提示されます。

 

どういう事かと言うと、制裁のシステムを利用した更生によって資本主義システムはそのままに、犠牲のみを無効にしようと言う試みです。

制裁のシステムとは「犯罪者を罰によってその罪の重さを自覚し、更生しましょう」と言う警察の公務として普通に行われているシステムの事です。つまり「再生産」とは罪と罰を受け入れて(古い自分を燃焼し)更生する(立ち上がる)と言う事です。

 

これによって資本主義システムの犠牲は「罪と罰」によって燃焼され、更生した新しい自分で何度でも立ち上がる事ができます。こうして華恋は犠牲のみを無効にし、再生産された資本主義システムで消極的社会主義のひかりを打倒します。

これがアニメ版におけるレヴュースタァライトの結論です。

 

しかし再生産総集編ロンド・ロンド・ロンドではこうしてハッピーエンドに思われたアニメ版の結論に異議を唱えることになります。

(キリン)

戯曲スタァライトは作者不詳

あなた達が終わりの続きを始めた

ならば…わかります

 

(バナナ)

舞台少女の、死

 

彼女達と資本主義システムとの闘いはまだ終わっていません。

ロンド・ロンド・ロンドまでの(アニメ版までの)話は一度ここで区切れます。

ここから先は劇場版レヴュースタァライトの内容になります。

 

④資本主義システムは最後の問題へ

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ならばその先は?

次のセリフは?

次のあなたの出番は?

 

私たちはもう、舞台の上

 

完全に攻略したかに思えた資本主義システムは次の問題へと移行します。

ロンド・ロンド・ロンドまでに散々資本主義システムと戦ってきました。そして資本主義システムからの脱却は失敗に終わり、最終的には「資本主義システムの中で再生産によって犠牲を無効化する」と言う方法でもって制する事となりました。

 

 「私たちはもう、舞台の上」

 

 「舞台」=「資本主義システム」の事です。

つまり彼女達の選んだ道はもう一生資本主義システムの上であり、絶望を避ける為に罪と罰によって自分を燃焼し続け、再生産を繰り返さなければならないと言う事です。

そして一度脱却を試みたバナナには再生産によって解決した資本主義システムの行き着く先が見えています。

(バナナ)

舞台少女の、死

 再生産には贖罪と言う燃料が必要です。ではその燃料は果たして無限に供給されるのでしょうか?

この問題に対して最初に音を上げるのは香子です。

 

(香子)

しょうもな

トップスタァになれなかった自分を

もう受け入れたんか?

うちは帰らせて貰いますんで

 

うちが一番…しょうもないわ

 

香子にはもう立ち上がる力が、自らを再生産する為の燃料が残っていないのです。

資本主義システムの犠牲と言う問題は再生産によって解決された訳ですが、仮にこれ以上再生産できない状態まで来てしまった場合、また資本主義システムの呪いが彼女達に襲い掛かる事を意味しています。

つまり「舞台少女の死」とは再生産の為のエネルギー切れの事です。

再生産によってもう一度立ち上がる為にはトップを目指すと言う罪を犯さなければなりません。つまり罪を犯す為にはそもそもトップを目指す意思がなければならないと言う事です。その意思が死んだ瞬間にゲームオーバー、資本主義システムの闇に飲まれ煌めきを奪われる事になるでしょう。

 

 再生産と言う解答はトップを目指す、つまり罪を犯す勇気が必要でありそれは個人の意思の強さへの依存度が高いが故に本質的な心の強度の限界が直接資本主義システムの犠牲へと直結します。

これが劇場版レヴュースタァライト最大の問題提起であり彼女たちがこれから向き合わなければならない最後の問題です。

 

当然華恋もこの問題に直面する事になります。

華恋はひかりとの約束を糧にして(燃料にして)これまで頑張ってきた訳ですが、第100回聖翔祭でひかりとの約束は果たされました。では華恋はここから先何を燃料にすればいいのでしょうか?

(ひかり)

華恋、でも、私達の舞台は

まだ、終わっていない

私達はもう、舞台の上

(ここで列車の音)

 

華恋はバナナとひかりの資本主義システムからの脱却を阻止し、資本主義システムの中で生きていく事を示した張本人です。それができたのは華恋には「約束」と言う結末が存在したからに他なりません。その結末があったからこそ、そこに向かって走る事ができた、立ち上がる事ができた。しかしここで華恋の燃料は尽きます。

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劇場版では華恋の贖罪(食材、トマト)が壊れる描写から始まります。華恋は卒業に向けて進路を決める事になるのですが、その進路を空欄のまま提出するのは、今まさに華恋がトップを目指すと言う罪を犯す為の燃料が尽きている事を物語っています。

されど舞台はつづく

The Show Must Go On 

 

資本主義システムは残酷なので永遠に止まる事はありません。例え彼女の燃料が尽きようがお構いなし、そのまま資本主義システムという名の現実の舞台は続きます。

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この問題にバナナは一早く到達します。

 

(バナナ)

列車は必ず次の駅へ

では私たちは?

 

列車とは資本主義システムの事です。香子のザマを見たバナナはこの無限に続く残酷な列車に乗り続ける事ができるのか?再生産の為の燃料を絶えず供給し続ける事が本当にできるのか?とこの映画の主題を問います。

⑤最後の問題への回答

さて、ここからはこの「燃料の不足問題」への回答が少しづつ示されていく訳ですが、果たしてどうなるのでしょうか?ヒントは皆殺しのレヴューでバナナとキリンが示します。

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(バナナ)

自然の摂理なのね

舞台が望むなら

 

なんだか自分じゃないみたい

強いお酒を飲んだ気分

舞台が望むなら、どんな私にもなれる

 

(キリン)

あぁ…

私にも役目があったのですね

(キリンが食材(贖罪)になる)

 

あれほど資本主義システムを毛嫌いしていたバナナですがついに自分を捨てます、そしてまるでお酒を飲んでいるかのような「役」に回り、資本主義システムに適用しようとしています。バナナは資本主義システムへの回答である「再生産」を本質的な何かへの執着を燃料とした心の再生産ではなく、芝居的「虚勢」によって自分自身を再生産している訳です。

そしてその燃料となるのかキリン(食材)つまり「観客」です。誰も見ていない状態で張る虚勢には何の意味もありませんが、誰かが見ている時に張る虚勢には罪を犯す力が、つまり資本主義システムに立ち向かう為の力があると言うことです。

そう考えるレヴュースタァライトが何故舞台少女と言う題材を扱ったのかにも納得が行くと言うものです。今回の映画の結論はこれです。

この後の話は虚勢による自らの再生産にはどのような手順を踏む必要があるのか?についての補足がされて行く事になります。

はい、未完成です!

怖いですよね、でも怖くて当たり前です!

 

ここでは結末の続きを描く事の恐怖を明確に示しています。そしてそれが当たり前である事を確認しています。

 

(双葉)

もう一緒には行けない

いつか香子の隣に立つ為に!

 

(香子)

鬱陶しいわ、さっきからしょうもな

本音さらせや

 

ここで一体何が行われいるのかと言うと、「本音の確認」です。バナナが示した通り残酷な資本主義システムに再生産で立ち向かう為の燃料が切れた時の回答は「虚勢」です。現実と言う舞台で自分と言う「役」を演じる事で偽りの煌めきを生み出すと言う訳です。この煌めきは偽りであるが故に華恋が約束の為に放っていた煌めきと比べると純度が低い事は認めるしかありません。そこでこの偽りの煌めきの純度を限りなく本物に近づける為に(強いては超えていく為に)必要になってくるのがこの「本音の確認」です。

 

双葉はこのシーンで全くと言って良いほどに本音を見せません。「何がしたいか」ではなく「何をすべきか」と言う文脈で戦っています。こう言う嘘で誤魔化そうとする虚勢は弱いです。「役」を演じると言う事は逃避ではなく立ち向かう為の力でなくてはなりません。その為に必要なのは本音の自覚です。まず資本主義システムに負けそうな本音を認め、その上で本音を燃料として虚勢を再生産する事によって煌めきの純度を強固にすると言う訳です。

 

(まひる)

どうして華恋ちゃんから逃げたの?

本当は?
(ひかり)

本当は怖かった…

 

(バナナ)

それはあなたの言葉?

本当はもう何も見えないくせに

(純那)

いや、他人の言葉じゃダメ

あなたに与えられた役割はいらない!

 

(真矢)

奈落で見上げろ、私がスタァだ!

(クロ)

あんた、今までで一番かわいいわ

(真矢)

私はいつだってかわいい!

 

このように今回のレヴューでは9人全員の「本音の確認」がひたすらに行われていきます。これは彼女たちの「虚勢」を再生産する為の必要動作であり、残酷な資本主義システムと戦う為にトップを目指すと言う罪を犯す決意でもある訳です。

 

 

それでは最後に約束を果たし何者でもなくなった華恋の再生産の話をして終わりたいと思います。

 

(バナナ)

見つけなければいけない

みんなに立つべき舞台があるように

この道の果てにある、あなただけの舞台を

 

(華恋)

私だけの舞台って、なに?

わかんないよ

 

ひかりとの約束を果たしてしまった事によって華恋は目指す物がなくなりました。映画冒頭で約束の象徴である東京タワー(約束タワー)が粉々になる描写は今まさに華恋の燃料が尽きた事を物語っています。

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 華恋は次の目的がない事に対してかなり自覚的に問題視しており、自分だけの舞台を探します。しかし何度考えても華恋にとってはひかりが全てであり、ひかりなしでは資本主義システムと戦えるだけの燃料を確保できません。何を目的にするにしても手段と目的の昏倒が避けられず煌めきが足りません。と言うのも華恋は残念ながらもう「ひかりとの約束」と言う運命によって生産された目的に代わる物を運命ではない手段としての目的しか用意する事ができず、運命を超える事は一生叶わないという訳です。

これによって資本主義システムの上で生きていく事を選んだ華恋にはもう生き残る道は用意されておらず、このままでは死ぬしかありません。

 そして華恋はついに資本主義システムと言う舞台の上で死にます。しかし死んだ華恋は棺桶から復活し自らの再生産に成功します。

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これは何が起きたのかと言うと、「一度死ぬ」と言うのが華恋にとっての「本音の確認」であり虚勢を再生産する為の必要動作だったという事です。

 こうして華恋は運命なき目的を再生産の為の手段として作れないことを認め、「愛城華恋の人生」と言う名の運命の舞台の上で「資本主義システムの上でも生きていける愛城華恋」と言う役を演じる覚悟でもって虚勢を再生産し、新たな燃料を確保した事で物語は幕を閉じます。

 

我々は残酷なこの世界を生きていく中で、本音だけでは立ち向かえない事は誰にでもあります。そんな時に我々を救うのは「立ち向かえる自分を演じる」と言う狂気です。人は皆、少なからず自分と言う役を演じる舞台少女です。

なぜなら

この世界は私たちの、大きな舞台なのだから。